世にも不思議な 笑いの練習(2)

更新日:2014.3.18


笑いの時間だ。おばあさま楽しいですね。思いっきり笑ってみた。
やればできるのだ。何を格好つけていたのか?笑いながら、涙がとまらない。
オレはやったのだ!初めて自分を超越したのだ!
人間はやろうと思えば、なんでも出来るのだ。
人になんと言われようと、自分のため、家族のために戦うのだ。

「馬鹿になれれば、お前は一流だ。」
と父に教えられた27才。父の遺言の様に思い、努力してみたが所詮なにもわかっていなかったのだ。格好つけて、自分が一番可愛くて、強がり言っても臆病者でしかなかったのだ。たのしくなくても演技すれば笑える。
演技で笑っているうちに、気持ちが晴れてくる。やがて本当の笑いになってくる。
何もやらないで私には出来ない、と決めつけてしまう。
そんなことでは、自分に出来ないときめて退去して、なにも挑戦できない自分になってしまう。

こんな屈辱的なことと考えた。少々不幸と感じている自分を偽って、楽しくもないのに、楽しめそうもない相手方と手を握り、目を合わせ、ほほ笑むなど寒気のすることではないか?
しかし、やってみれば、そんな風に考えた自分は未熟者であったのだ。

人は変われる、変わるのである。
それは苦しいし、苦い体験を通して始めて自分のものにすることが出来る。
これは、学問で得る知識とは別物なのだ。
頭でっかちな自分を反省する。
この笑いの練習くらい為になったことはない。
私の皮が1枚めくれた瞬間であったと、今にして思う。

夕方7時の食事。夏であったので未だ日が高い。
10時消灯で寝床に就く。それまで同室の方と雑談するか本を読むかしかない。
60才前の同室の紳士から、(上場会社の役員の方である)相談を受けた。

自分の家族は、親兄弟、妻子供、全員自殺した。
今は、自分ひとりでやがて私も自殺するだろう。
そんな呪われた家系、自分の未来が恐ろしい。こうして、この道場で救われたい。
貴殿はどんな理由でこの道場にきたのか?
あまりにも違った境遇で返事も出来ない。みるからに健康そうなこの紳士の持つ悩み、苦しみ、なんとも慰められない悲しい人生なのではないか。

亡くなられた方々のためにも、貴方は長生きしなければなりません。
通り一辺倒の言葉しかでない。そう思うし、私もそうしたい。
しかし、私の親族誰もが、病気でもなく、その瞬間まで死のうとは考えてはいなかったのではないか?と思うと、私には自信がない。私の宿命かもしれない。
とくに悲しそうな表情もせずに淡々とかたっておられた。
明るくおつきあいさせていただく以外に、私にできることはなかった。

室の皆さまにしてさし上げられることは、布団の上げ下ろし、裏庭で干して差し上げること。それしか、私にできることはなかった。それが、今の自分の力であった。
10時に寝るには早すぎる起床は5時半だが、眠れない。

気がつくと、静かにきれいな声が拡声器から流れてくる。なんて、美しい優しい声だろうか?うっとりと聞き入ってしまう。
宗教っぽく嫌いな話だが、この声の魅力に負けて、聴き入ってしまう。
うろ覚えであるが・・・。
なんでも、谷口雅春45才くらいに悟ったイメージが言葉になっている様だ。

汝、天地一切と和解せよ。
汝、天地一切と和解せよ。
汝が苦しい時、悲しい時、あるいは重い病魔に犯されたとき、汝は神を頼むであろう。
我は、汝の元へ行きとうても、よう行かぬ。されど、汝が天地一切と和解したとき
我は汝の元に在る。我は汝なり、汝は我なり。
初日に聞いた時は全く意味が理解できなかったが、3日目の夜、突然この意味が判った・

天地一切を許し、和解するとき、その人は神になれるのだと。
嫌な奴、嫌いな業務、いつも叱る上役、反抗する部下。人々はいつも自分中心で自分の都合の悪いこと、思いのままにならない人やこと、自分より能力を有する人を認めない弱さ、和解できないことに囲まれて生きている。
小さなことに「こだわって」自分にも他人にも、不満が増幅する。

楽しめない自分、人から好かれない自分がいる。
この教えは、一生は一度しかない。出会える人は限られている。どんな人でも、許す練習、自分の周りで起きたことは、どんなことでも、それは自分のせいかもしれないのだ。と、許す練習をする。百に一つでも人の良いところを見つける努力をする。
和解するのだと、心の中で叫び、天地一切と和解を心がけてみる。
気がつけば、千分の一でも神様に近づけた自分がいるかもしれない。
病気をしない健康な自分になっていたのかもしれない。病魔には犯されないのだ。
と、以来私は、この言葉の素晴らしさをかみしめている。

感謝の練習 | 世にも不思議な 笑いの練習(1) | 世にも不思議な 笑いの練習(2)

カテゴリ:貞末良雄のファッションコラム

世にも不思議な 笑いの練習(1)

更新日:2014.3.11


練習道場に戻ろう。次は、笑いと和解の練習だ。
あの30食の食券・・・
初日の昼食、少しは美味しい昼食にありつきたいものだと思い、食堂に入る。
配膳された長テーブルに座る。お盆には、どんぶり飯と目ざし一匹、みそ汁、梅干し1ケ、
以上おしまい。
とても食べられない、こんなどんぶり飯、おかず不足、やれやれ何の楽しみもない。
無理をしてでも食べなければ、夜までもたない。
売店で食べ物が売っているなんて事はないのだ。
酒もタバコもジュース、何も売っていない。

夕食の時間、19時くらいか?流石に腹が減っている。夜は期待出来るかな?
お盆には、どんぶり飯、お汁、鯵の干物、梅干し、以上終わり。
ガッカリするが、腹が減っている。
どんぶり飯を平らげるには、おかずを大切に食べるしかない。
梅ぼしは種もかみ砕き、鯵は頭から。骨も大切なおかずである。

食べ終わると、お盆の上には食器と箸以外、何も残らない。
300人の残飯、さぞかしと思うも、残り物用にバケツが一ケ。
流石に梅の種をかみ砕けない人が「種1つ」をバケツに入れる。
何と、300人の残飯は梅の種だけだった。
くる日もくる日も同じメニュー、他に何もなければそれも美味しく待ち遠しい。

自分はシャバ(娑婆)では、どんなに無駄な食い方をしていたのだろうか?
知らず知らずに贅沢が当たり前になっていた。
私たちは残飯、生ゴミが山ほど出る生活を何とも思っていなかったのだ。
また一つ、思い知らされる。

次に「ありがとう」の練習であった。
300人収容の大広間。講師や体験談の合間、一時間おきに乾いた雑巾で、広間の畳を
一列になって拭きながら、「ありがとうございます、ありがとうございます。」と繰り返す。なんだか馬鹿らしいのだが、これはやれば良いのだから少し運動にもなる。
兎に角やるしかないのだ。

最後、雑巾掛けの後に笑いの練習だ。これはつらい・・・。
楽しくもないのに笑うのだから。これは馬鹿さ加減を通り越している。
笑いの講師が壇上で「皆さん横一列に手をつなぎましょう」と言って、
横一列に手をつなぐ。
「さあ、皆さん、隣の方に挨拶して、両手を大きく上げて、さぁ皆さん、たのしいですねー、笑いましょう、ワハッハ、ワッハッハ」

どうして笑うことが出来るのだろうか?両手を上げて「ははは」と笑う振りをする。
終わると、
「それぞれペアになってお互いの手を握り、向かいあって目と目をあわせてください。」
手をつないだのは、80才くらいのおばあさま。
「目を見つめ、さあ笑いましょう。両手を上げてわらいましょう!」
笑うどころか、悲しくなってしまう。

どうして、こんなくだらないことをするのだろうか?
中には大きく笑っている人々がいる。
笑いの輪が広がる。しかし、私は笑えない。
寒気がしてくる。この練習が一時間ごとにやってくる。
とても出来ない。こんなことをやらなければ仕事に就くことができないのか?
もう、嫌だ。こんなブザマな自分が情けない。
お前の自尊心はどこに行ったのだ?2日目の午後、流石に忍耐も限界にきた。
家に帰ろうと心に決めた。

翌朝、同室の皆さまの布団を干しながら荷物をまとめる。
家に帰ったら職探しだ。しかし、そう簡単ではない。
研修していても、会社は1日1万円の日当を支給してくれている。
この1万円で家族と暮らしていける。

笑いの練習に堪えて、この収入を確保しなければならないが、私は出来ないと決めた。
しかし、1万円のために笑えないのか?
他の人が事もなげに笑っているのに、何故、自分にはできないのか?
恥をかく勇気もないのか・・・・。
1万円、1万円と念じて笑ってみよう。それしか道はない。

やってやろうじゃないか、再挑戦しよう。道場に戻った。

感謝の練習 | 世にも不思議な 笑いの練習(1) | 世にも不思議な 笑いの練習(2)

カテゴリ:貞末良雄のファッションコラム

感謝の練習

更新日:2014.2.28


私の様な俗人が、まじめな課題に取り組むのは、いささか恥ずかしい気がする上に
そんな資格があるのか?と思われても仕方のないことなのであるが。

37歳のときである。私が勤めていた会社(1800人の従業員・年商400億円)が倒産した。
予想されたことであったが、他に例をみないこのユニークなFASHION産業は、たとえ経営が困難になったとしても、どこからか救済の手が伸びくると、楽観的な見方もあった。
しかし、1978年4月6日、紛れもなく倒産した。

その後3~4か月、後輩たちの再就職に奔走したが、自分自身のことは最後になってしまった。どこかで拾ってくれる企業があるかもしれない。と考えたが、いつまで経っても声は掛からない。生活を支えなければならない。妻と子供3人、5人家族である。

なにもなければ、包丁研ぎでもやるか?研ぎには、子供の頃、母の料理食堂の手伝いで少しは経験もある。しかし、それで一家5人の生計が・・・?
母がラーメン屋からスタートして料理店をやっている。私も、ラーメン屋から始めてみるか?と思い母に打診。にべもなく断られてしまった。ラーメン屋は60才からなら応援もする。貴殿は37才、もっと世のため、人のために働きなさい。

万策尽きてしまった。12年もVANに努め、それなりの実績を残したつもりであった。
あまりにも猛烈社員でありすぎたのか?私を快く迎えてくれる業界の会社はなかったのだ。しかし、なんとか生き延びなければならない。

一通の手紙がきた。
ヘッドハンティングされる様な大物でもない。
人材銀行というのだろうか?人材紹介の会社からである。

物流の心得があるので、ヨーカ堂の物流センターはどうか?
入社には、当時の伊藤社長の面接が必要で、一か月後である。
もうひとつは、当時、世界に飛躍するスーパーヤオハンであった。
土地購入のローンもあり、銀行からは、一日も早く収入の確定を促された。

ヤオハンの和田社長は即面接可能。
静岡県の三島市が本部である。都落ちだ、少々寂しい。しかし、そんなことは言っていられない。とにかく収入をゲットすることが急務。
役員面接8人中7人には不合格。こんな生意気な奴!と思われた様である。
(後に知ったことだが、役員に口応えすることなど、100%不可の社風であった)
最後の和田社長面接では
「貞末さん、私の会社役員のほとんどが、あなたを不合格としました。だから、私はあなたを採用したいと思います。そんな人が私はほしかった。しかし、貞末さん、規律乱すことなく、和を大切にしてください。」

次に社長のお母様、和田かつさん(おしんのモデルに成ったひと)に会うと、
「貞末さん、あなたはきかん気な顔をしている。仕事も良くやってくれるだろう。しかし、会社のTOPは和田和夫だ。それを大切にして、和田和夫を助けてほしい。」

最後は副社長である和夫社長の弟。
「貞末さん、ハイという練習をしてください。上役になんでも反発するのではなく、とにかくハイ、と受ける練習をしてほしい。才気があるからすぐに反論も出来るであろう。
しかし反論は1週間まってやってくれないか?」

これで晴れて入社。首はつながったのだ。
しかし、これで終わりではなかった。河口湖の練成道場で10日間勉強してほしい。
そのレポート提出で入社が決定される。
谷口雅春という方が、悟りを開き広めた生長の家道場であった。

やれやれ、宗教は大嫌いときている。
道場の門をくぐり、入口に立つ3人の女性がいきなり手をあわせ「ありがとうございます」
私はまだ何もしていない。感謝される覚えはない。戸惑ってしまう。

いきなり、教材15,000円の購入が決められている。
10日分の食券30食。A3の大きさで切り取り線が入っている。
これを全部使わなければならない。気の遠くなる様な量だ。
部屋は1階奥の6号室、誰も案内してくれない。
部屋を探しながら廊下をあるく。すれ違う人たちが皆、私に挨拶する。
皆が皆、手を合わせ「ありがとうございます」
何なのだ。狂人の世界に迷い込んだのか?
それにしても、皆、もの静かできれいな佇まいだ。

部屋に入っても誰もいない。6人部屋と聞いた。所在なく座っていると、
部屋の拡声機から何やら人の話し声が聞こえてくる。講堂があるらしい。
近づいてみると驚いたことに約300人もの人が講義を聞いている。
語り手は姑を殺して刑期を終えた50才くらいの女性であった。
凄まじい反省と後悔、腸が捻じれるような号泣、刑は終えたが、私は許されるべきてはない。何故あの様な恐ろしい事をやってしまったのか?
人を殺してまで自分は楽になりたかったのか?何故、私に堪える力、どんな小さな事でも姑に感謝の気持ちが持てなかったのか?全部が全部、何故否定してしまったのか。
地獄に落ちたが救われたい。すべてを皆の前で懺悔して許されたい。

私は茫然として立ち竦んでしまった。
次は、ガンに侵され余命1カ月位の老人の話であった。
あと1カ月、自分の人生、その犯してきた罪の深さ。人は殺さなかったが、私は許されるべき人間ではない。この道場で生のある限り、償いの日々を送りたい。この様な主旨であった。300人の方々が何らかの理由で、罪の意識から解放されて救われたい。懺悔して救われたいと思っているのであった。多くの重病の方々も最後の救いを求めていた。

私は37才で会社が倒産し、無一文、一からやり直しの人生。しかし、兄弟は何事もなく裕福に暮らしている。私の様な不幸な運命は他に無いだろうと今まで思っていたが、何という光景であろうか?私の不幸などというものは、とるに足らないことではないか。
私の心も体も健康だ。妻や子供たちも健康だ。これに勝る幸せがどこにあるのだろうか?私は幸せなのだ。

道場での話は一旦筆を置いて。感謝についてである。

ありがとうの言葉の裏に感謝がある。会社を設立し、電話一本、机一つでスタートする。
誰からも何日も電話一本もかかってこない。SMRオフィス、経験を生かしてコンサルの仕事もやろう!しかし、電話はいつまでも鳴らない。
4~5日経っただろうか?電話が鳴った。思わず電話に飛びついた。
有難う、電話下さって。電話一本が砂漠のオアシスの様なものだ。有難い、感謝感謝だ。

当たり前のことと思いがちであるが、考えてみれば私たちの周りには、感謝に値することがあふれている。何事にも感謝出来ることを探し、感謝する練習を始めることだ。
そうすれば、沢山の感謝を発見するスキルが上達する。
こんなにたくさんの感謝を探し出すことが出来れば、不平や不満、相対的に比重が下がってくる。感謝できれば、それは幸せに通じている。感謝出来れば「ありがとう」が自然に声になる。

人生には、嫌なことや自分に失望することも多くある。
又、それによって、希望を失ってしまったりする。
そして、自分の不幸の比重が増加する。そんな時こそ、周りに満ち溢れるだけある感謝すべきこと、自分が健康であること。親兄弟が健在であること、友に恵まれていること、
優しい自分を失っていないこと、未だ私は生きていること、生かされていること、そんな沢山の感謝出来ることに囲まれている。
それを、練習を重ねて探し出し素晴らしい健全な精神を養うことである。

“感謝の練習”
こんな考えてもいなかったことも、練習があなたを救ってくれると確信している。

感謝の練習 | 世にも不思議な 笑いの練習(1) | 世にも不思議な 笑いの練習(2)

カテゴリ:貞末良雄のファッションコラム

成りたい自分に成る 最終章

更新日:2014.1.31


私のコラムを読んだ人から「私にはもう一人の人間(自分)が居ない。どう考えたら良いのですか?」
予期しない疑問に一瞬戸惑ってしまった。この人はどんな生き方をしてきた人なのだろうか?

駄目な自分を励ましたり、慰めたりしてくれる母親のような存在がもう一人の自分なのだが、その様に考えたことがないのかもしれない。もう一人の自分を騙すことは出来ない。世間は誰も本当の事を言ってくれないが、もう一人の自分は正直に欠点を指摘してくれる。

もう一人の自分はいつも自分の味方なのだ。自分の欠点も良い処もみんな知っている。
親の庇護下にある時は、意識しないこともあるのだろうが、一人で社会に出て自立し、自分の力で生きていくとなったら、強力な味方が必要だろう。それがもう一人の自分である。一生涯付き合ってくれる理想の友人だ。一方、永久の厳しい批判者でもある。
駄目な自分を決してあきらめないで叱咤激励してくれる。一人ぼっちになったとき、励ましてくれる。もっと頑張りなさい。やると決めたのに何故やらないのですか。それは他人のせいではありませんよ。あなたが弱いからですよね。
あなたは善人だといっているが、本当は違うかもしれないという事を知っていますよね。嘘はついていないと強弁しましたが、本当は嘘つきましたよね。
明日からは勇気を出して、正直にやりましょうと決意しても、そうして又、同じ事を繰り返す自分に少々嫌気をさしてくる。その時、何とあなたは駄目な人なのですかと厳しく叱ってくれるのも、もう一人の自分なのです。

そうして何時の時点からか、自分はあんな人に成りたい、誰かを理想として目標を持つように成ってくる。自分の成長と共に、理想像も変わってくる。成りたい自分の具体像が鮮明になってくる。自分が成るべく、具体像の一つ一つに近づき克服しようとする。
例えば、誰からも好かれ、異性からもてるという事とは一体どんなことなのか、考える事が始まる。

好かれる要素や、もてる要素を深く掘り下げ、はたして自分にはその要素があるのだろうか。生まれつきの脚の長さや顔型はどうすることも出来ない。それが全てではない筈だ。誰からも好かれ、異性に人気のある人と、自分の距離を考えてみる。そんな人に近づけるには、何か必要なのか、どんな努力が必要なのか。このようになりたい自分への修業が始まる。成りたい自分はこれだけではない筈だ。

ここまでの話は自分の事だけを考えている例だ。自分がこの世に存在することが、他人にとっても意義のある自分に成らなければならない。もしかしたら、それこそが自分が世の中に存在する意味なのではないか。生まれてきた以上は、自分の存在する意義を見つけ出し、他の人達からあの人が居なくては困ると言われる様な存在に成りたい。

自分の存在する意義を発見したら、その人は強くなれる。誰にも負けない信念が生まれ、努力することや苦労することも楽しくなってくる。真の生き甲斐が生まれる。

この大テーマに挑戦するとしたら、どんなことから始めるのか、どの様なことが他人からみて価値のあることなのか。考えて考えて考え抜かなければならない。
生まれて何となく生きてきた。考えると言っても、こんなことを考えた事もなかった。毎日の生活で一喜一憂していたが、いつまで経っても同じような些細なことに悩んだり、悲しんだりする。27歳になったが、17歳の時の自分と全然変わっていない。成長していないのかもしれない。こんなことを10年後も続けているのかなあ。

一体自分とは何者なのだろうか。それが分析出来なければ、成長処方箋が書けない。
自分とは何か、他人とは何か、異性とは何か、友人とは何なのだろうか。私に親友はいるだろうが、自分がそう想っていても、相手はどう思っているのだろうか。

幸いにして、人間には考える能力が与えられている。考える事の無い生活は、動物と同じなのではないか。

さあ皆様、考えましょう。今からでも遅くありません。

カテゴリ:貞末良雄のファッションコラム

成りたい自分に成る(3)

更新日:2013.9.20


若い社員から質問を受けた。

「今の自分が判らないのに成りたい自分なんて考えることが出来ない。」

今の自分とは、どんな人間なのだろうかと考えている自分である。

私は正義感があり、優しくて思いやりもあり、人の意見に耳を傾け、相手にとってなくてはならない友であり、私の存在は世の中を良くしていくだろう。
とにかく私は正しい人間なのだ・・・
と、私の良い面を列挙してみるとよい。

次に私の悪いところだ。

もしかしたら、私は意地悪かもしれない。とにかく人に優しくなれないのだ。
機嫌の悪いときは不親切だ。時に不親切かもしれない。
私は極端にけちだ。人に借りたお金は返したくない。
人の成功がうれしくない。嫉妬心が強すぎる。
不幸な人を見ると安心する。感謝の気持ちを持ったこともない。
考えてみれば友人と話をするとき、いつも自分が話していて、人の話を聴いていないかもしれない。
人は私の事を可愛らしいと言っているが反対なのではないか・・・

人はこの様に自分の良い面と悪い面を認めている。認めていないとしたらその人は未だ幼児で5才以下の精神年齢と考えなければならない。
しかしながら、この「自分は絶対正しく、悪い面などあり得ない。もしそう他人が思うとしたらそう思う人が悪いので、自分は悪くない。」こんな人が多いことも事実である。
何人かの人の上に立って仕事する地位の高い人の中にも、このような方が結構いるものである。

そこで、自分とはどんな人間なのか、主観でなく、客観的に考えてみる。
しかし自分で自分を客観的にみることなど、到底難しい。

そこで人間は一人で生きているわけでないので、自分の周りの人達から自分を判定してもらう、批評してもらうことが重要となる。人の意見は一人でなく複数の方がよい。自分の良い点は別にして、悪いところを正直に言ってくれる人はいるだろうか。
これも捜すのは難しい。人はリスクを冒してまで真剣に自分の事を、まして欠点など言ってくれるわけはない。
そこで初めて、自分は何者であるか判断する道を失うことになる。

自分を信じて思った通りやる。猛烈に努力する。それは何人も敬意を表してくれる。仕事も成功する。

とにかくまっしぐらに何事もやる。しかし大失敗もする。
この失敗は他人が悪いのか、自分の中に問題があったのか。
他人のせいにする人は何も学ばないが、もしかしたらこれは自分にその責任があったのではと、考えれる人は成功への道を歩むことも出来る上に、他人の忠言を聴く耳が発達する。自分の欠点を言われて、楽しい人はいない。
しかし、大きな失敗を重ねた人はそれを聴く度量が大きくなる。
初めて、主観的にも客観的にも自分の姿が観えてくる。
自分の周りで起きること、取り巻く世界は、全て自分が創り出していることを悟るからだ。

自分が何者か知りたければ、他人の力を借りるしかない。
しかし、他人は力を貸してくれない。自分が与えなければ報いはない。
他人との付合は真剣さが要求される。
この人には忠告したほうが良い。欠点を教えてあげたほうが良い。

そうすれば、大きな反発を買う。大きなリスクを負うのだ。何事もしなければリスクはないし、誰にも喜ばれないことなどやらない方が良い。誰しもこう考えるかもしれないが、あえて挑戦することだ。虎穴に入らずんば虎児を得ず(リスクを冒さなければ何も得ることはできない)

リスクを冒しチャレンジしなければ、本当の友人も生まれないし、自分も成長しない。
人の欠点を言う時、初めて自分はどうなのだろうかと思う。
この人はこの点が悪く、問題があるのだと思ったら、腹に収めないで言葉にすることだ。思いもよらない反撃をくらい、友を失うこともある。
しかしここで去る者は友としての価値もないのだ。

成りたい自分の原点は、次の様に考えてみることは出来ないだろうか。
人間は一人で生きていない。社会、集団の中で生きている。
自分が世に存在することが、他の人達に取って有益であることが、その人の存在が意義あるものとして、他人から認められる。
仕事上でも、友人関係、親子関係でも基本である。
私が居るからお前たちが居るのではなくて、他人から認められて初めて自分が居るのだ。
自分の存在は他人が決めてくれる。

勉強が一番で、運動能力も一番で、美人、美男子で、仕事も誰にも負けない。
だから、私はいつもOK。価値ある人間であるとしても、他人からは嫌味なやつ。
鼻持ちならなくて、思いやりもない、自分以外は虫けらだと思っているやつとすれば、誰からも評価されないだろう。
狭いスポーツの世界や学問の世界では、No.1の特殊能力は他人からは大いに評価されるだろうが、一般人として社会に出た時に、その人が自分の栄光をいつまでも口にすれば、評価されることはない。狭い世界でも一流人の多くは、一般社会でも一流の確率は高いが、総べての人に当てはまるわけではない。
人はどんな苦しみも悩みも死んでしまえば何も無くなる、解放される。
自殺する人が絶えない。

しかし、考えてみよう。
与えられた生命。
自分の意志で生まれてきたわけではないが、自殺しなくてもいつの日か生命は終了する。考えれば胸が張り裂ける様な恐怖ではないか。

それでも人々はその事を知りながらこつこつと努力を重ねる。
だから人間はすごい動物なのだ。
人間としての度量を大きくすること(人を許す力)にはげみ、自分の存在が、人々から感謝されるような自分、駄目だと思った自分が、こんなに努力しているのだと、自分を誉める。お前よくやったな、と・・・

勇気も体力も知力もない自分が、それでも今日は勇気を出して体力知力の限りやった。
その努力、一生懸命さが人々に感動を与える。

自分だけの為でなく、友人、知人、自分の周りの人達の為にこんな自分でもよくやったと自分を誉める日々を続けることが出来れば、自分には嘘はつけないのだから、やがて成りたい自分の実像が見えてくるのだ。
自分ともう一人の自分が和解する、握手するとき、自己矛盾から解放される。
自分の成りたい自分に近づく瞬間でもある。

カテゴリ:貞末良雄のファッションコラム