2009年3月、やがて桜咲く春が来る。

自然界は何も変わっていない、しかし人間の住んでいる世界は大騒ぎである。
リーマンショック以降、100年に一度の世界恐慌と言われている。

私の様な小さな会社、シャツを作ってシャツを売る商人の世界からは想像も出来ない様なことが行われていたらしい。
物に関係なく、お金が宙を舞い、飛び交い、お金を動かすことで絶対に儲かる仕組みを考えた人達が、際限なく取引を拡大した。
その果てでババを引いた人が倒れ、それが引き金で儲かる仕組みに群がり集まった人達が、一挙に将棋倒しに連鎖して倒れていく。

その人達だけが、受難するのは自業自得であるが、何も関係のない人達まで巻き込んでしまっている。
こつこつと物を作って売っている小さな私は、いつもと変わらない毎日を送っているのに、知らない内に世界が変わってしまっている。
こんな風に感じる。

いつも失敗して、5度も会社を変わり、その会社がことごとく潰れてしまった経験をしているので、その経験が世の中はこんなものだと教えてくれる。
決して望みを失わないで、こつこつやって行けば、必ず希望する世界がやってくると信じているから、今起きていることにそれほど大騒ぎしたり、恐慌に引きつったりはしない。

それにしてもリーマン倒産の報が入るや否や、日本の代表格である、その尊敬する会社、世界の先頭に立っていた、ある意味屈強な大将が真先に退却したものだから、日本全軍は大混乱に陥ってしまった。
成功体験からは窺い知れない、未知の体験に遭遇する、見たこともない巨大な敵に怯えてしまったのだろうか。
誇りある先頭に立つべき大将は、決して退却を潔しとしない。
しかし総大将が退却してしまった。
次に続く人達に口実を与えてしまった。

長く日本の文化であった、潔き良さ、恥の心、大和魂、すなわち精神的なタフネスなどは、今回のどたばた、混乱の中では、ついに見ることが出来なかった。
誰かが一瞬でも踏みとどまって、時間を稼いでくれたら、その行動に多くの人が感動と勇気をもらっていたとしたら、日本は震源地である米国よりもひどいGDPの落ち込みはなかったのではないか。
我慢するという風潮が廃れてしまった。

今回の大企業の行動は、アメリカ的な合理的決断なのであろう。
人より会社(株主)を優先する。
株主に対する説明がつく行動が優先する。会社は株主のもの、しかし会社はその構成する人によって運営されている。
人あっての会社ではないのか?

よく考えてみると、今の日本の危機は他国に較べ豊かさの中での危機であって、誰も未だ飢えて死者が出たり、そこらじゅうに行き倒れが起きてるわけでない。
今まで以上バブリーに贅沢が出来ないかもしれないという危機感である。
報道は人々の不幸を増殖させている。
流通業界では、消費が冷え込み、売上減少に歯止めがかからないと考えている。
確かに全体のパイは贅沢ができない危機意識から、高級贅沢品から消費は冷えて来ている。
そうは言っても、私達の商売は、人間の欲望を充足することから始まっている。

どんな不況といえども、
人間の欲望の火を消すことは出来ない。
人間である限り、欲望は無くならない。

この不況は、人間の欲望の質の変化を促している。
この欲望の変化・方向を見定めてその先に手を打つ。
“じっと我慢して嵐が過ぎるのを待つ”動くな損をするなと号令を掛けている会社もあると聞く。
しかしどうであろうか、この変化に対応する自己革新と未知のリスクへの挑戦こそが、未来を切り開く鍵ではないだろうか。

思い出してみれば、1945年第二次大戦による、破壊と廃墟のどん底、食べる物すらない、芋の茎や野草を食べて我慢と不屈の魂を持って一生懸命に働き、いつのまにか米国に追いついた。
その後、1973年オイルショック、1985年のニクソンショック、プラザ合意後の円高(為替レートの激変)。
1990年バブル崩壊、世界中が絶体絶命と考えた日本経済は、その困難を乗り越えて、不死鳥のように奇跡の繁栄を勝ち取ってきた。

求められるのは、再び原点に返り、不屈の努力、我慢、勤勉、精神的タフネス、それを忘れなければ世界が信じているように、私たち日本の復活はそう遠くはないのである。