このテーマは、私の生涯を通して考え続けているテーマである。

それは私が小学校4年生の頃の事であった。今にも雨が降りそうな空模様であった。
学校から帰る途中の道に乞食のオジさんが坐って、物乞いをしていた。
当時は、第2次大戦で負傷した帰国兵が包帯を巻いて、痛々しい姿で街角で物乞いをする姿をよく見かけたものであった。
そんな理由で、物乞いするオジさんは特別にめずらしいものでなかったが、私が通り掛りに見かけたオジさんは何故か弱々しくうつむいていて気にかかった。

家に帰るとやがて大粒の雨が降り始めた。
私はうすら寒くなった空を見上げ、あのオジさんはどうしているのだろうか、冷たい雨に濡れて困っているのではないか、私は大きな番傘を持って、そのオジさんの処に戻って行った。
予想通り、そのオジさんは雨に打たれさらに弱々しく、坐っていた。
とても可哀相に思い、思わずオジさんに傘を差しかけて、せめて雨に濡れるのを防いであげた。

雨は何時までも止まない。
私は、その場から去ることも出来ない。
オジさんは何も言わないで、今までと同じ姿勢で坐っている。
私の方には1度も振り向いてもいない。
それでも、オジさんは雨に濡れないで坐っている事が出来る。
幼な心に良かったなあと思う。雨は止む気配もない。

そのままのポーズで、2時間も経っただろうか。やがて辺りが薄暗く夕方になっていた。
私が家に居ないことを母が心配して、私を捜しにやって来た。「良雄、晩ご飯だよ。帰りましょう。」 
私は母に、「でも…帰れない。」
母は私に少しきつい口調で「帰りましょう。」 
渋々、母と一緒に帰る私の不満そうな顔を見ながら母は、「良雄、お前は親切でやさしい子だね。お母さんは、きれいなお前の心は判っているよ。しかし、良雄、考えてごらんなさい。あなたが傘を差して助けてあげている間、あのオジさんには誰もお恵みをあげなかったでしょ?」

その通りだ、と私は思った。
「お前のやさしさは本当に素晴らしい事だけれども、そのやさしさが、あのオジさんから晩ご飯を奪ってしまったとしたらどうなんだろうね?やさしいということは、むつかしいものなのよ!」と母は言った。

幼い私の心がはり裂けるように、理性と感情がぶつかり合っていた。
私は何の報いを求めたわけではない。それならオジさんは私に帰れと叱ったのではないか。
オジさんは何も言わなかったが、とげとげしい表情もしなかった。
2人の間には暖かい空気が漂っていた様にも思えた。
本当にあのオジさんを何とかしてあげたかった。
そして傘を持って、オジさんが濡れるのを防いだ。
しかし、その為にあのオジさんは、晩ご飯にありつけなかったのだ。

幼い私は、本当の親切とは何なのか判らないまま、その宿題が私の長いテーマになってしまった。
親切が相手を不幸に追い込む事がある。
真の親切は全体を見透かす力を持って、相手にも自分にも為に成ると信じた事をやり遂げる。
本当の親切とは叙情的にならず、それを相手が快しとしない場合でも、結果が良い方に向かうと信じて、勇気を持ってやっていく。
ビジネスの世界ではその様に割切るべきとやって来た様に思うが、果たしてそれが正しかったのであろうか。

親切とは何か、WEBで調べてみても、辞典を読んでもみても、気の効いた解は見当たらない。
ラ・ロシュフコーの言葉にこんな言葉がある。
『本当の親切ほどまれなものはない。人に対して親切なつもりでいる人は、通常ただただ人を喜ばせようとする心か、さもなければ弱い心しか持っていない人だ。』
これも大人の考える世界だ。10才の子供の世界ではない。

さて、皆様はどのように考えますか?