哲学者は物事の本質を追及するとき、今までに考えられている、通念と成っている事象を根本から洗い直し、一歩ずつ、正確に、反証出来ない語彙で論述し、まわりくどく反復する為、読む方は疲れてしまう。
やがて何を語ろうとしているかさえ、判らなくなってしまう。自分の頭脳の回路がそれに追いつかなくなる。だから難しいのだ。

しかしこの通念を疑う事、当たり前と思ってしまっている事の中に、大きな誤謬が潜んでいたりする。私たちの上辺の理解を根こそぎ剥ぎ取ってしまう事もある。

だから、哲学者でない私達は、何故と問う事から始めてみたい。

子供は何でも「何故」、「どうして」と聞く。
そして成長する。

問うた数の多さと、正しい回答を得た経験の多さが、成長の度合いに関係があるのだろうか。

何故と問わなくなった時に、その人の成長が止まると考えられないだろうか。
老化現象は、何故と問う、考える事が面倒臭くなった時から始まるのではないか?
何故と問わない限り、回答は得ることが出来ない。

人の成長も企業の成長も、「何故」、「どうして」と正しい問いを投げかけ、正しい回答を見つけ出すことが進歩ではないのか。

成りたい自分、理想とする自分を思い描く。
そのあるべき自分と今の自分が、どこが違っているのか。それは何故か。
思い描く姿が遠すぎて諦めてはいないのか。
何故近づけないのか、近づこうとしていないのか。
そもそも、理想の自分の設定が間違っていたのか。
私は生まれてきて、何をどうしたいのだろうか・・・

会社についても同じようなものだ。
会社がうまくいっている。
本当にそうだろうか。このまま未来永劫にそうなのだろうか。何故うまくいっていると考えたのだろうか。うまく行っているとは一体何を持って、そう断じるのだろうか。

今はもう過去だから、未来は誰も判らないから。
今日、初心に一歩一歩努力を積み重ねる。
それしか人間のやれる事はないのだから。
いつも満塁ホームランに恵まれることはない。
うまくやれた昨日と同じ事を繰り返していて、明日は約束されると考えるのはあまりにも無謀だ。

もし会社がうまくいっていないとしたら、それは一体何故なんだろうか。
自分は間違っていなくて、周りのもの総てがこの会社を悪くしていると考えるのは正しいことなのだろうか。本当に自分は間違っていないのだろうか。

自分を含めて、一体何が原因なのか、うまくやれている同業者とどこが違うのだろうか。
そもそも自分の会社は何の為にあるのだろうか。
誰の為にあるのだろうか。
世間に必要と許されなければ会社なんて、うまく行くわけはない筈だ。

どこで踏み外してしまったのだろうか。
会社の存在が世間から許されたり、祝福されない限り、存在の意味がないとしたら、それを個人に置き換えてみたら自分は何なのだろうか。

会社と同じように、うまくいっている自分なのだろうか。そうだとしたら、このまま未来永劫に、と考えてよいのだろうか。

若くて美しくて健康で、ハッピーを謳歌しているとする。やがて歳もとる。このまま健康や美を保つのはどうするべきか。その時が来たとしたら自分をどの様に処するのだろうか。その時は絶対に来るはずはないと、無視してしまうのだろうか。

今の自分はどう考えても、うまく行っていない。
それは、他人のせいなのだろうか。
私は何の為に誰の為に生きているのだろうか。
山奥で一人で生活していないとしたら、人々と交わって生きている私は、必要とされる人間なのだろうか。人々から祝福され、なくてはならない人間なのだろうか。

何故と問う、正しい質問にしか、正しい回答は生まれない。
正しい問いとは何なのか。
皆様と毎日考えたいですね。