私のコラムを読んだ人から「私にはもう一人の人間(自分)が居ない。どう考えたら良いのですか?」
予期しない疑問に一瞬戸惑ってしまった。この人はどんな生き方をしてきた人なのだろうか?

駄目な自分を励ましたり、慰めたりしてくれる母親のような存在がもう一人の自分なのだが、その様に考えたことがないのかもしれない。もう一人の自分を騙すことは出来ない。世間は誰も本当の事を言ってくれないが、もう一人の自分は正直に欠点を指摘してくれる。

もう一人の自分はいつも自分の味方なのだ。自分の欠点も良い処もみんな知っている。
親の庇護下にある時は、意識しないこともあるのだろうが、一人で社会に出て自立し、自分の力で生きていくとなったら、強力な味方が必要だろう。それがもう一人の自分である。一生涯付き合ってくれる理想の友人だ。一方、永久の厳しい批判者でもある。
駄目な自分を決してあきらめないで叱咤激励してくれる。一人ぼっちになったとき、励ましてくれる。もっと頑張りなさい。やると決めたのに何故やらないのですか。それは他人のせいではありませんよ。あなたが弱いからですよね。
あなたは善人だといっているが、本当は違うかもしれないという事を知っていますよね。嘘はついていないと強弁しましたが、本当は嘘つきましたよね。
明日からは勇気を出して、正直にやりましょうと決意しても、そうして又、同じ事を繰り返す自分に少々嫌気をさしてくる。その時、何とあなたは駄目な人なのですかと厳しく叱ってくれるのも、もう一人の自分なのです。

そうして何時の時点からか、自分はあんな人に成りたい、誰かを理想として目標を持つように成ってくる。自分の成長と共に、理想像も変わってくる。成りたい自分の具体像が鮮明になってくる。自分が成るべく、具体像の一つ一つに近づき克服しようとする。
例えば、誰からも好かれ、異性からもてるという事とは一体どんなことなのか、考える事が始まる。

好かれる要素や、もてる要素を深く掘り下げ、はたして自分にはその要素があるのだろうか。生まれつきの脚の長さや顔型はどうすることも出来ない。それが全てではない筈だ。誰からも好かれ、異性に人気のある人と、自分の距離を考えてみる。そんな人に近づけるには、何か必要なのか、どんな努力が必要なのか。このようになりたい自分への修業が始まる。成りたい自分はこれだけではない筈だ。

ここまでの話は自分の事だけを考えている例だ。自分がこの世に存在することが、他人にとっても意義のある自分に成らなければならない。もしかしたら、それこそが自分が世の中に存在する意味なのではないか。生まれてきた以上は、自分の存在する意義を見つけ出し、他の人達からあの人が居なくては困ると言われる様な存在に成りたい。

自分の存在する意義を発見したら、その人は強くなれる。誰にも負けない信念が生まれ、努力することや苦労することも楽しくなってくる。真の生き甲斐が生まれる。

この大テーマに挑戦するとしたら、どんなことから始めるのか、どの様なことが他人からみて価値のあることなのか。考えて考えて考え抜かなければならない。
生まれて何となく生きてきた。考えると言っても、こんなことを考えた事もなかった。毎日の生活で一喜一憂していたが、いつまで経っても同じような些細なことに悩んだり、悲しんだりする。27歳になったが、17歳の時の自分と全然変わっていない。成長していないのかもしれない。こんなことを10年後も続けているのかなあ。

一体自分とは何者なのだろうか。それが分析出来なければ、成長処方箋が書けない。
自分とは何か、他人とは何か、異性とは何か、友人とは何なのだろうか。私に親友はいるだろうが、自分がそう想っていても、相手はどう思っているのだろうか。

幸いにして、人間には考える能力が与えられている。考える事の無い生活は、動物と同じなのではないか。

さあ皆様、考えましょう。今からでも遅くありません。