Maker's shirt 鎌倉

貞末良雄のファッションコラム

絶体絶命


それは、全く予想を越える出来事だった ―

1980年のニューヨーク・マンハッタンは、地図の至る所が危険地帯として赤く印されていた。語学堪能な大手アパレルの課長さんが、夜の街に出かけて帰らぬ人となった。と報道される、まさかが現実になっていた時代。私は新ブランド提携の交渉に、三菱商事の杉田徹さんと1980年11月、二度目のニューヨークに向かった。

交渉が一段落した日曜日。充分に時間もできた。キャナルストリートで念願のガーバージャックナイフを買い、ついでにチャイナタウンで昼ごはんをと考え、49丁目のレキシントンホテルをひとり出発。日曜日の地下鉄には通勤客がいないので、絶対乗らないで欲しい。と、旅行会社から厳しく注意を喚起されていたが、お金を節約と歩いて行くことに決め、危険地帯を避けながらソーホー方面に向かった。
ユニオンスクエアーは危険地帯であったが、どうしてもそこを通ってキャナルストリートに行かねばならない。そこで、同じ方向へ歩いている数人の白人に同行することにした。
これならば安心と思っていたが、やがて白人たちは一人また一人と道沿いの家に消えて行った。ふと気が付くと、何と私ひとりになっていた、しまった!と思ったがもう遅い。せまいストリートには、日なったぼっこしている黒人のなんと多い事か。舗道は黒人で埋め尽くされている。

覚悟を決めて道路の真ん中をゆっくり歩くことにした。何も起こらなければ良いが・・・と念じながら、道の半ばにさしかかった。案の定、遥か遠く真正面から、2メートルもあろうかと思われる黒人が、私を目がけてゆったりと向かってくる。逃げる事は出来ない、周りの黒人たちは皆様子を窺がっている。私が目標でない事を祈るしかない。
覚悟を新たにして、とにかく自分の道を進む。すると、目の前に迫った巨人はいきなり私を上から抱え込んだ、来た!そのデカイ事。身動きが出来ない、なすすべもない。
彼は、耳元で「ギンマー、ギンマー」と呻いている。ギブ・ミー・マネーの意味だろうか・・・
ポケットに手を突っ込むと、“銃を取り出す”と思われ反対に撃たれる可能性があると聞かされていたので、お金を取り出す事もできない。
私はただただ、「ノー、ノー」と声を押し殺して答え続けた。

何度も押し問答をしていると、彼の吐く息の臭い事、さらに彼の体が左右ゆっくり揺れている事に気づいた。もしかしたら 麻薬中毒?と、彼の揺れに体を任せその振幅が大きくなったその時、思い切り彼の体を抛り出し、見事に彼を投げ飛ばした。その瞬間、周りの黒人が一斉に立ち上がった・・・危ない!
心臓が張り裂けそうであったが、あわててはいけない。道路に横たわった彼に「カモン」と声をかけ、手を差し伸べて半身を起こしてあげた。
彼はそれ以上襲いかかってこなかった。そうなれば大変だったが、私は何事もなかったように振舞い“柳井音頭”を口ずさみながら漸く、大通りにたどり着いた。助かった・・・命拾いした!

怖くて怖くて脚の震えが止まらない。通りかかったタクシーに飛び乗りホテルに直行した。部屋に戻ればもう安全だ。しかし、それからどれくらい震えていただろうか?やがて震えも収まり冷静になってみると、こんなに恐れ慄いたとこは無い。無残な怖がり方であった。
どうして、こんなに怖がったのだろうか。誰も見てはいないが、恥ずかしいし、情けない。
こんなことで、こんなに怖がる自分。臆病者と認めて生きるのか・・・我ながらみっともないし、許されない・・・この恐怖を克服しなければ、私の今までの誇り、自尊心を失ってしまう。よし、もう一度同じ場所に行こう。同じように初めからあの道を歩いてみよう。これが出来なければ、私は勇気のない臆病者で終わってしまう。

同じ道までタクシーで向かった。なに食わぬ顔で歩き始めた。何故か危険は感じない。左右を見ると黒人は私を凝視している。私を覚えているようだが、敵意は無いと感じる。手を振って挨拶すると、彼らも手を振って応じてくれる。もう安心だ。ゆっくりストリートを渡り切った。やった!!!ついに自分の恐怖心を克服した、私自身に勝利した瞬間であった。

私には大きなかけであったのだが、後に誰からも、何とバカなことをしたのだ。命がいくらあっても足りないぞ。と揶揄されたのでした。

メードインジャパンの将来はお客様の支援が必要です。


日本の繊維製品の国内縫製比率は2.7%を下回る現状です。
約40億枚の流通量の内、約1億枚である。
海外製品の流入は39億枚、しかしながら正規で販売されるのは60%、23億枚強、16億枚がセール又はアウトレットで販売されていると考えられます。
正規販売で60%正規消化であれば、会社が利益を出そうとすれば小売価格の15%から20%の原価率が求められます。
こう考えると国内で商品を作ることは、難しくなります。
海外比率が高くなり、低い賃金の国を求めて工場探しが始まり、工場建設が、2000年ころから主流になっています。
このことが一時的に会社の延命につながりますが、大量に注文する、シーズンの9ヶ月~1年前から注文しなければなりません。
マーケットの変化・消費動向の変化が予測されても、注文が大前提で物づくりが先行して行われます。
見込み違いをして正規で50%又は40%しか売れなくてもなんとか利益を出すためには、出来るだけ原価の低い事が最重要です。
低価格低原価に拍車がかかり、15%・20%が当たり前になります。
そうなるとこの価格でこの品質、価値観が感じられない、やがて消費者からNOを突き付けられます。
これが現状の一端であることは間違いない事実です。

例えば、弊社のマンハッタンモデル、5,900円を海外平均原価率で作ったとしたら、15%で885円 20%で1,180円です。
私たちはメイド・イン・ジャパンで、工場様には縫製代金を1,450円支払っています、これは市場価格の25%になります。
それに生地代金、付属品包装費、運賃が加算されます。

また、高級な生地を使用しています。
ボタンも天然の貝、プラスチックの10倍です。
それでも、正規販売率が99%であるので、海外輸入価格で原価を抑えなくてもなんとか生き延びていけます。
売れ残りを“捨て値販売”する、等の無駄を排除し、さらにお客様に価値ある商品をご提供する事ができます。
勿論一切の無駄を排除して、私たちの会社はローコスト経営に徹しています。
現金決済と少数精鋭主義を貫いています。

このように国内生産であっても、経営が可能であることを創業25年存続をもって証明してきました。
ローコスト経営・正規商品消化率・最短距離物流・品質の確保など、国産の優位を証明してきました。
しかしながら、1993年の創業以来、国産比率は激減の一途です。
日本の物づくり、お家芸と言われる精緻な技、これを守るためには、生活者の皆様と一緒に、より情緒豊かな、文化性のある、生活スタイル、服を通じた自己実現を目指し、質の高い人生を、一度しかない人生を豊かなものにしたいものです。

更に言えば 人は良いものに触れて、成長する、良い物の力で、その人は新しい次元に導かれるのです。
これは理屈ではなく体が感じ取るのです。
「百見は一触にしかず」とカンブリア宮殿で申し上げた事なのです。

四壽(ヨンスン)永遠のライバル


彼は私の住む柳井市柳町に突然現れた。私が小学校4年生の時である。

私は柳町のガキ大将であった。
学校が終わり 仲間たちと、缶蹴り・チャンバラ・鬼ごっこ等、毎日楽しく遊びに明け暮れていた。
勉強など誰もしていない、良き時代である。

彼の名は白川 四壽(ヨンスン)大柄で切れ長な鋭い眼光の持ち主で結構ハンサムであった。
彼は韓国人が集団で住んでいる、地域に家族と共に引っ越して来たのである。
彼らは豚を飼育し、山羊を飼い、鶏を育て、その地域は動物糞尿などの入り混じった独特の臭いのする、集落であった。
我々が簡単に踏み込めない独特の雰囲気を醸し出していた。
彼はそこからやってきたのである。今考えてみると、彼は私たちの仲間になりたかったに違いない。
彼は強引に我々グループに割入ってきた。仕方なしに仲間に入れて遊ぶのであるが、どうしても波長が合わなく、途中で喧嘩になってしまう。当然ボスの私と取っ組み合いになる。
私も喧嘩慣れしていて、自信満々であったが、彼は何時も巧みに私の背中を取り、軽々と私を抱え上げて地面に叩き付ける。
恐ろしい力で、その衝撃は声も出ない悶絶の一歩手前である。
呻いている私を見下し、彼は悠然と引き揚げていく。
何度戦っても絶対に勝てない。
何時もの結果が待っていたが、私は絶対に“参った”と言わない。
勝負は決着していない。でも私には勝つ術がない。そんな日々であった。

5年生になっていた、ある日、私の家からほど遠くない坂道の八百屋の前で、先輩に交わって遊んでいたら、彼ヨンスンが現れ、私に喧嘩を売ってきた。
激しい言葉の応酬の後、彼は一旦引き揚げ、青竹のこん棒を引っ提げてやってきた。

彼は私を殴ると言う、殴れるものならやってみろと、一歩前に出た。
まさか殴る事はあるまい。
得物を使い喧嘩するのはルール違反だ。たかを括っていた。
しかし彼は青竹を振るってきた。頭を一撃された。痛みよりは、まさか?の驚き。
思わず左手を頭にやると、生ぬるい血がべっとり手を濡らしている。
やがて顔面一杯に血が垂れてくる。
彼はその出血の凄さに顔面蒼白になっている。
私は痛みよりは、これで彼に勝ったと思い、このチャンスを逃すものかと、逃げ込んだ彼の家まで追いかけた。
玄関前で「ヨンスン出てこい」と叫ぶ、何事かと両親が顔を出す。
その驚いた様子に私は大声で 「まどえ まどえ」 (元に戻せ 償え 柳井弁である) 何度も連呼した。
あの大きな親爺さんもぶるぶる震えている。ヨンスンを出せ、私は勝ち誇って大声でわめいていた。
異変を聞いた長女の葉子姉さんがやってくる。
「よちゃん、どうしたの?」
「大変だ、直ぐお医者さまに」 と近くの外科医に連れられた。

%e4%bc%9a%e9%95%b7%e5%86%99%e7%9c%9f160615_01-up幸い2針の縫合ですんだが、頭は包帯でぐるぐる巻きだ。
名誉の負傷だ。この姿は迫力満点だ。

家に連れて帰ろうとする姉を遮って、やり残したことがあるからと、再度ヨンスンの家の前に立つ。
「この包帯が見えないのか、 まどえ まどえ」 怖がって誰も外に出てこない。
完全な勝利をものにできた。トドメを刺したのだ。
代償に山羊を戴くことにした。
「山羊を貰っていくぞ」 と大声で、繋いであった山羊を引いて帰る。
山羊がどれだけ彼らにとって貴重であるかは判っていた。
家に山羊は必要ない、帰り道の川の辺から山羊を蹴落とした。
山羊は大丈夫、泳げるし、親爺は直ぐに助けるに違いないから。
その時以来ヨンスンは私たちの目の前から姿を消した。

あれから、何十年経っただろうか。
彼の事は忘れた事はない。40代後半の出来事である。
広島に墓参りに帰省した。
長男の経営する洋品店の入り口前に、七半(ナナハン)と呼ばれる大きなバイク3台が何時も駐車され、困っているという。注意すれば良いではないか?
兄は、「それが難しいんじゃー」
どうせならず者の仕業だろう。困ることは困るのだから。私はすぐさま、大きなバイクを移動させようとした。そのときである、3人の大柄なやくざ風の男たちに囲まれた。
「何をしとるんじゃい」
今にも殴りかからんばかりのその時、突然恰好よい偉丈夫いかにもやくざの兄貴分風の彼は、いきなり3人のやくざ者を平手打ちして、「てめいら、何をしとるんじゃあー」
「お前らが束になって掛かっても勝てる相手じゃない」、と私を見つめ、「よちゃん、久しぶりじゃ、
あんたは強かったのおー」 彼が手を差し出し、握手した。目を見つめあった。
もし今度何かあったら、この俺に連絡してくれ。

奇跡の一瞬であった、懐かしいライバルが救世主として、現れたのだ。
彼も忘れていなかったのだ。
喧嘩に明けくれた、わんぱく時代も無駄ではなかったのだ。
何時も怯まないでいたい。こんな道を歩いてきた。
彼は秘かに私を尊敬していたのかも??嬉しかった。

Coming Soon (New Version)『それを Manhattan Model と呼びます』


私たちが目指した、世界基準はナポリの職人技によるハンドメイドシャツである。
手縫いによる職人の技術が作り上げた傑作であり、その価格は数万円と最高の価格である。
限りなくそのレベルに近づき、ミシンによる縫製を可能にして、私たちのお客様に手の届く価格が課題であった。
当然ではあるが、それこそが鎌倉シャツの物づくりであり、商品が皆さまに語りかける物でなければなりません。

2012年それは、New York 進出に始まります。
日本人が西欧のシャツをつくり、西欧人に認めてもらい購入していただけることです。
幸いに私たちは『IVY LOOK』に関する経験と知識がありました。
「日本人には無理だ。」と言われましたが、私たちの物づくりと、アメリカ文化に対する蓄積は、開店と同時に大きな関心を集めました。
何故なら、もはやアメリカには、Made in USA のシャツは稀で、中国製・ヴェトナム製以外に購入の選択肢がなかったのです。
彼らは、私に「本当に日本製ですか?」と何度も念を押しました。
「これだけのシャツがこの価格!」驚きと尊敬を集めました。
そして「よく来てくれた。」と、彼らの応援が始まりました。
「どうか継続して欲しい、決して撤退しないでください」と。
流石に歴史ある、彼らの洋服に対する知識・見識は、想像を絶するものでした。
彼らは私たちに、本当に彼らが望むシャツは、こうあるべき、こうして欲しい、ありとあらゆるリクエストを頂きました。
世界最高レベル、そこに到達するべく、彼らの忠告・希望を叶えるべく、私たちの挑戦がスタートしたのです。

4年の歳月が流れました。
彼らにもまして、日本のこだわりのあるお客様にも、満足して頂ける商品が完成しました。
その商品グループに Manhattan Model (マンハッタンモデル)と命名し、一部の店から2016年12月より販売を始めます。
着てみればわかります。
それ以上の説明はできません。
製造・縫製の技術は難度の高いものです。
協力全工場で一斉に製作はできません。
段階的に販売を開始いたします。
ご期待ください。
(価格は5,900円(税抜)、USA $89 を予定しております)

Coming Soon (新しいシャツの誕生)


世界基準へのVersion UP

創業して20年、念願の New York 進出を実現した。
勉強も充分したつもりでの New York である。

日本人が西洋の文化の結晶である、紳士服ワードローブの中でも最も重要なシャツを、アメリカの一等地、New York Madison で販売するのである。
そこは、世界の著名なシャツメーカーが、凌ぎを削っていた。
この地で名声を博したら、第一関門は合格と言える。
3年間で1万人を越える顧客名簿の獲得、Yelp(*) 検索では 5 stars の評価を戴き、順調に Made in Japan、それに加え社員のサービスの徹底が多くのフアンを創り出した。

想像を絶するお洒落なお客様。
こんなにもシャツの好きな、知識豊富なお客様に巡り会えた。
幸運を次に生かしたい。

沢山のアドバイスを戴いた。
襟型、袖ぐりのたわみ、全体を包むホルム、ポケット、上着とシャツのハーモニー。
ジャケットの袖から見えるカフスの角度。
より上品でエレガントなシャツ、こよなく紳士の佇まいを引き出してくれる、そんな、世界のどのメーカーよりも進化したシャツを創りださねばならない。

挑戦が始まった。

先ず設計図である。
シャツは構造物であり、人体を包み込む構造物は平面図から始まる。
人体は丸みを帯びた角の無い構造物である。
平面の設計図から人体を包み込む。
立体構造は、縫製の技に負うところが多い。
精密な設計図と工場の製造技術の調和なくして、世界を唸らせる製品の誕生は到底実現しない。

世界的巨匠と言われる設計者に我々の思いを伝え、工場の技術者との格闘の末、ここまでやれるのかと言われるような、新たな Version が誕生した。
工場の作業工程は難度の高いハードルを越えて頂いた。
日本の匠の技が結集したのである。

販売価格は5,900円(税抜)以内、驚愕の価格を実現させたいと努力しているところである。
このようにして、私たちのお客様に今以上の感動をお届けする日がそう遠くない事をおしらせしたい。

*Yelp:世界30カ国(約1億4200万人のユーザー)で展開されている口コミサイト

一本の電話


鎌倉シャツを立ち上げ、店を開店した。
工場と店があればよい、その他の機能は購入されるお客様には、関係のない費用である。
中間マージンを省き それをお客様に還元すれば、お客様は喜んでくださるに違いない。
お客様が価値ある品質で、しかもこんなにお買い得な価格、驚いて顎が外れるくらいの、驚愕の商品、それが実現できれば、起業は間違いなく成功する。

家に籠って仕様書を作成し、設計図・パターンをその道の匠にお願いする。
鎌倉の家からではとても時間的な制約が多い。
都内に事務所を借りることにした。
しかし、この費用は製品の原価に反映してはお客様の利益に反する。
事務所費用を長年培ったアパレルの世界の経験を生かして、コンサルタントとして稼ぎ出そう。
サダマーチャンダイジングの誕生である。

事務所の半分は加茂市にある有名なニッターさんの東京事務所としてお願いして、費用を半分に節約することが出来た。
20坪の事務所にデスク一個、電話一本である。
出来る限りの知人友人関係会社に開業を知らせた。
毎日電話を待つ日が続いた。
しかし、待てど暮らせど電話はかからなかった。
こんなに電話を待った事は、経験がなかった。こんなに電話ってかかってこないものか。
自分の今までのキャリアは何だったのだろうか?

自信を喪失する10日を過ぎたころ、一本の電話が鳴り響いた。
電話に飛びつき、出た言葉は、ただ「有難うございます。」、本当に有り難かったのです。
救われたのです。感謝、感謝でした。
鎌倉シャツは此の大切さ、感謝の気持を、いつまでも忘れない。
こんな意味を込めて、社員は電話コールを2度まで待たせない、有難う電話を続けている。

友人の一人が、大学の講義で、サービスの第一歩は電話で始まる。
その会社の良し悪しは、その会社の電話対応であると講義している。
世界最高の電話対応は、鎌倉シャツであると。
生徒に「試しに電話してみなさい」、この会社は必ず2度以上のコールはさせないと。

顧客創造


鎌倉シャツを立ち上げたときに考えた事。

小さなコンビニの2階で店を始めた、当然売れないのは当たり前である。
しかし誰か一人でも買ってくれたら、その方はきっと自慢するだろう。
百貨店や専門店で買えば、恐らく12,000円から15,000円するであろう商品を4,900円で販売するのだから。
お買い得で誰かに自慢したくなる、と考えた。
勿論自分でも欲しくなる値段と商品のグレードである。
美味しくて安いお店は、どんな裏筋の狭い店でもお客は訪ねて行くものであることは、食いしん坊の私にはわかっていた。
コンビニの2階でも、必ず商品を判っている人は訪ねてくる、買ってくださる。
1人が2人になる、2人が4人になり、8人になり、16人に32人、64人、128人、256人、このようにいつの日か大勢のお客様で溢れるお店になるだろう。

お金がないから、宣伝費はない、お客様に喜ばれる事が大切で、宣伝費があるのならば、そのお金を使ってもっと良いシャツを作ろう、そのほうがお客様にとって有り難い事にちがいないからだ。
売り上げを幾らにしようか?どれだけ売れば良いのか?しかし目標を決めても、それを実現する方法は見つからない。
さればどうするか?出来ることは 親切に正直に笑顔で心からおもてなしが出来る事だ。
その心がお客様に伝わり、ファンが生まれ、お客様の数を増やす事になる。
これならば誰でもやろうと思えば出来る、売り上げを上げる手段は見つからないが、お客の数を1日1人増やすことができれば、その店は大勢のお客様に恵まれる日が、必ずやってくる。

サービスは大企業も小さなお店でも、平等に行使できる。
大企業のサービスが絶対に強いという事はない、皆平等だ。
雑誌「Hanako」に掲載という幸運もあったが、基本的にはこのようにして、お客様を創りあげたのでした。

4,900円の値段はこの品質でこの値段はお客様が驚いて顎が外れる値段であった。
買わなければ損をする、そんな気持ちになってしまう、品質と価格設定をした。
値段は仕入れ価格とは関係はない、その値段がお客様に納得していただけるかどうかだ。
値段は小売業の責任で決定権を持たねばならない。
シャツを創るためにかかる費用は、一店舗の力では所詮他の大手の会社の資金力に勝てる訳もない。
だからと言って、私たちには力がありません、仕入値段が高いのですから、これに自分の利益を上乗せした金額で販売したとして、お客様が可愛そうだからと言って高い価格を認めてくれるだろうか?
これは絶対にありえない。
お客様にとっては、その店が幾らで仕入れているかなどは、関係がないのである。
お客様は単純に値段に反応するのです。

自分にもっと力があればもっと割安な仕入れが出来る、と思ったがそれは、望むべくもないのでした。
お客様が買って下さらなければ、シャツは売れない、当たり前である。
自分の力のなさをお客様に負担して貰うなど、できないのだから、利益がでなくてもお客様が喜んで買って下さることが重要で、買って下さる顧客の増加が、やがてお客様から、利益の一部を戴ける日が来ると考え、頑張ることしか、当時の私たちにはありませんでした。
真の商人になって見せる、その理想を掲げ正しい商取引、買い手が何時も有利という、売り手を苛める、そんな業界の悪しき習慣を経験して、私こそはと創業当時決意したのです。

柳井の天神祭り~思いは通ず~


子供の頃、祭は田舎町で一大行事であった。
12年振りに私の住む柳井町に大名行列の当番がやってくる。
町を挙げて準備が始まっていた。(1951年11才 私は小学校五年生だった)
毎年観る行列は、強烈な印象があった。
馬に乗った大名、それに続く太刀持ち(たちもち)、若党の集団。
私は太刀持ちの持っている太刀に憧れていた。
天神祭りに私もあの太刀を持って、町内を練り歩きたい。
塚本和子ちゃんや、桧垣さん(美人)や、友人皆に見てもらいたい。
学校が終わるとすぐに町を仕切る林染料店に行き、林さんに「私に太刀持ちをやらせてほしい」と懇願したが、全く取り合ってもらえない。
家の縁側に腰掛け座り込む。3時間も座り込んだだろうか?やがて夕食の時間になり、食卓に夕食が用意されはじめた。
町一番のお金持ちだけあって、その食事の豪華なことにびっくりする。
これ以上座っていると、夕食にありつきたいと思われてしまうので、諦めて家に帰った。

次の日も、次の日も、同じ様に座り込んだが、全く相手にしてもらえない。
一週間も毎日座り込んだだろうか?ついに林さんが母を訪ねてきた。
林さん曰く
「奥さん、困っているのだよ。あんたの息子が毎日、私の家に座り込んで太刀持ちをやらせろとせがむんじゃ。こう言っては悪いが、太刀持ちをやれるのは、金持ちの身分しかやれないことで、あんたの家ではとても無理。息子を説得してくれんか?若党の役でよいのではないか?」
(若党はその他大勢でこれだけはやりたくない・・・)
母は、戦前裕福であった頃を思い、この屈辱に耐えられなかった。戦争で全てを失っていた。
「林さん、それでは、いか程の寄付をすれば、太刀持ちをやらせてもらえますか?」
母は、嫁入りの着物、指輪、全てを売り払った。
そんな事があったとは、後に判った事であったが、晴れて、私は太刀持ちの大任を得ることになった。
夜8時から新市町にある天神様で参拝の練習である。
毎夜、母の付添いで練習をした。私は得意満面である。
やりたい!やってみせる!執念は実った。
その陰で母の強い愛情に支えられていたのであった。

柳井の天神祭り~思いは通ず~

私達家族9人の生活は、広島で商売をしている父からの毎月の仕送りで賄っていた。
仕送りが遅れたり、途絶えたりと、母の苦労は絶えなかったのである。
やがて父に愛人が出来た。母の哀しい表情は忘れられない。母を助けたい。子供心にそんなことを思っていた。

母は自立する決意をする。
“小さな食堂をやろう!”
広島で小政という評判のラーメン屋に父が服を売って、貸し付けた支払が滞っていた。
その借金のかたに料理を教えてくれたら借金を棒引きするという約束で、コックさんが柳井にやってきた。
家中大騒ぎであった。ラーメン屋は家の玄関を取り壊して新しく食堂にすることになった。
15席くらいの小さな食堂の計画であったが、なんせ一銭のお金もない状態である。
無謀な決断であった。
知人の大工、木村さんは、材料さえあれば、出世払いで作ってあげると約束してくれたが、材木が必要だ。
夏の夜、母は、私に一緒に行ってくれと、2里近くある川の上流の材木屋を訪れることに成った。道すがら、お前は守り神だからと。
材木屋は浴衣姿で上機嫌で迎えてくれたが、母が「お金が無いのですが、必ず支払うので、一時材木を貸してほしい。」とお願いすると、ご主人は「いくらなんでも見も知らぬ方が、突然訪れてきて貸してくれと言われても、それは無理ですよ。」福よかな赤ら顔も困惑の表情であった。
その時、奥様が冷たい麦茶を運んでこられ、話を聞いていたらしく、「お父さん、この山一杯の材木を持っていて、この方にお貸しすることは、何でもないことではないですか?見れば、子供さんを連れてこられ、人をだます様な方には思えないではないですか。貸してあげてください。」
この一言で、無事、小さなラーメン店が開業した。
母曰く「小さなお前がどうしても太刀持ちをしたいとその思いを遂げた。懸命に参拝を練習するお前を見て、母の私がその不幸を悲しんでばかりいてどうなるだろうか?お前に導かれて、私も決意をした。」
母の強い思いが実現した瞬間であった。
その後、やがて大きな料理店となり、母は父を凌ぐ商いを実現した。

思いは実現する。
私の生涯を決定づけた経験であった。

スーツは戦うための服装だ


スーツは鎧だ。甲冑だ
 
スーツ姿というのは、ビジネスという戦場で着る、戦いのための服装です。いわば、鎧(よろい)、甲冑(かっちゅう)のようなもの。体にぴったりとあうスーツをまとい、ネクタイをきりりと締めて、緊張感を作り出し、自分を奮い立たせるものなのです。中にはリラックスできるからと、ゆったりめのスーツを好む人もいるようですが、緊張感なくしてリラックスなどありえません。
 
そして鎧や甲冑というのは機能性だけではなく、洋の東西を問わず、見た目にも気を使っていた。ある時は威嚇し、ある時は思わず目を奪われるような鮮やかな姿で、相手を精神的に圧倒したわけです。
 
現代の戦い、すなわちビジネスにも同じことが言えます。対人コミュニケーションにおいて、ノン・バーバル(言語以外の)情報が、言葉よりはるかに多くのことを伝えている、ということをよく認識したほうがいいでしょう。話す人の服装というのも重要な情報です。それを意識することで自信が生まれ、さらにプラスの効果を生み出します。お互いの利害関係を調整する交渉の場であればなおさらです。
 
服装より中身だ、という人もいるかも知れません。ですが、グローバルにビジネスを展開しようとしたら、そんな悠長なことは言っていられません。1回の会議やプレゼンテーションでYES、NOの結論がほぼ出てしまう事は珍しくない。服装を軽視しては、成功は望めないでしょう。欧米の人は特に服装を良く見ているし、話題にもします。それは、相手が自分と共通の目的を理解できる人間なのか、そうではないのか、服装から読み取ろうとしているのです。
 
スーツ姿は、セクシーだ
 
スーツを着こなしてビジネスに取り組む姿が、実は非常にセクシーなものであるということを、どれほどの日本人が理解しているでしょうか。英国で生まれ、長い年月をかけて育まれてきたスーツには、男性をいかに美しく見せるか、という叡智が詰め込まれています。そして、それが戦いに臨む服装であるということが、そこにセクシーさを加えるのです。死への一里塚に立った戦士が、あでやかな甲冑を身にまとう。それは究極のダンディズムであり、男女を問わず、人をひき付けてやみません。
 
スーツを買うことは自分への投資だ
 
戦いの服であるスーツやシャツを選ぶのを、人任せにしてしまうのはいただけません。自分に似合うもの、自分を強く、魅力的に見せてくれるものはどういう服装なのか、自分なりによく考えてみることです。そうすることで、自分の外面的な体型だけでなく、内面的な部分までを見直すいいきっかけになります。「こういう服を着こなすためには、自分のこういうところをもっと磨かなくてはだめだな」と思う事もきっとあるでしょう。また、まわりの人に自分はどういう服が似合うか、と尋ねれば、他人が自分をどのように見ているかがよく分かります。そこから学ぶことも多いでしょう。さらに購入するときには、お店の人など、詳しい人間の意見もよく聞く。こうして、服装を整えながら、自分も磨き上げていくわけです。
 
言ってみれば、スーツやシャツ、ネクタイなどをそろえ、着こなし、また自ら手入れをすることは、自分への投資。自己研さんとして考えると、本をたくさん買い込んで勉強したり、学校に通って技能をみにつけたりすることに比べれば、ずっと手軽ですし、楽しいものです。ぴんとこない、という人は、とりあえずシャツとネクタイだけでも工夫してコーディネートしてみるといい。それなら1万円程度で済みますが、おそらくそれだけでも、同僚や友人から「おっ、いいね」という声が返ってくるはず。その快感を味わったら、きっと服装に対する意識が変わってきますよ。
 
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靴下


靴下の役目は、靴と素足の間の緩衝材であり、保温・吸汗・乾燥・通気性の確保、靴の外に出る足の上皮の保護。重要な服飾の必需品である。
 
これらの要素を考えると、夏は綿100%。冬はウール100%が理想である。
 
靴と素足の間の緩衝材である以上、靴のサイズに適合した靴下のサイズでなければならない。不適合なサイズの靴下は、常に靴底で不当な摩擦を受け、短時間で磨耗する。
 
私は足が小さく24cmであるため、いつも靴下に苦労を強いられてきた。世の中では、紳士靴下の90%以上が25cm~27cmで販売されている。靴下のかかとが靴の外にはみ出してしまう。
逆に大足の人(28cm~29cm)にとってはいつも靴下を引っ張って履くことになり、足指先や踵とさらに薄くなり靴下の寿命は極端に短くなる。
 
靴下は編み物であるから、伸縮性があるため、大が小を兼ね、小が大を兼ねるとして、紳士靴下は25cm~27cmに統一されてしまっている。これは顧客志向ではなく、売り手の傲慢であり、売り場では販売効率を重視した結果であろう。
一方、靴下は恰好の贈答品であるため、贈る側はワンサイズが好都合でもあったのだ。靴下売り場はサイズ展開こそないが、ブランドは賑やかに揃っている。まさに贈答品である。
靴は0.5cm単位でサイズが揃えられ、靴幅も何種類も履く人からは要求される。サイズの合わない靴を履くことは苦痛で、これを我慢するひとはいない。しかし市場にある靴下はどうだろうか。
 
靴のサイズと靴下のサイズの整合性は、(靴下をはく意味を考えても)より求められてもよいのではないか。
何とか気持ちよい素材(天然素材=体に優しい)で自分の足のサイズの靴下が販売されていないだろうか。望むべきもない。どこを探しても見つからなかった。
客も無頓着であり、靴下なんてこんなものだと躾けられたと言えなくもない。お洒落の基本は足元からであり、靴選びは礼儀作法に基づいてより良い物を求めるものであり足元を美しく整えるためには、靴下の重要性は理解し得るものである。
 
消費者が単なる消耗品でよいと思っているが故に、供給側の顧客満足への努力は進化していないのである。そこで、自社で私自身の欲しい靴下の製作・販売を決意した。幸いにも日本には、私達の要求を満たしてくれる立派な製造工場が現存していた。
 
冬は細番手※のウールほぼ100%(補強糸入り)、夏はエジプト綿100%。
※48番手双糸のウールドレスソックスなどお目にかかれない!コストがかかりすぎるからだろう…。
サイズはS:23cm~25 cm/M:25 cm~27 cm/L:27 cm~29 cmの3サイズ展開である。
 
紳士の身だしなみとして欠かせないホーズ(ニーソックス)靴下…だらしなくズリ落ちないで、うっ血もしない高度な技術で編まれた暖かいウールソックスを中心として、ハイソックス(膝下)を2015年10月23日から販売をスタートした。
 
鎌倉価格は、皆様の期待に応えるものとして!
冬の健康は、(ウールは汗をかいても、水に濡れても、保温力は保たれます)足を暖かくすることからではないだろうか。
 
harrison

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メーカーズシャツ鎌倉株式会社
取締役会長 貞末 良雄

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