Maker's shirt 鎌倉

貞末良雄のファッションコラム

Made To Measure


『メイド トゥ メジャー(MTM)』――「サイズをお測りして、そのあと、製作いたします。」という意味であり、「お客様の“好きなデザイン”あるいは“お好みのシャツ”をお作りします。」ではありません。

お客様はシャツあるいは洋服のプロではありません。
その方が“望む服”をお作りする事は、私たちにとって正確にはサービスとは言えません。西洋で発達した洋服文化、特にメンズウェアにはルールが存在します。そのルールから外れたデザインを要求されても、それは究極、お客様の為にならないのです。

また、好きな服がその方に似合うとは限りません。自分の服装は自分で評価するものではなく、対峙する相手に対する礼儀であるので「相手がどのように自分を評価するか?」が重要なのです。その意味で、自分のサイズにぴったりと合った“ジャストサイズを着る事”が最高のお洒落の入り口です。
そのデザインも、私たちが既製服の中で提供している範囲でなければ、例えジャストサイズでお作りしても、お洒落かつセンスの良さを保つ事は不可能です。

すなわち、お客様に既製服では味わう事の出来ない“ルールに則ったジャストサイズ”を提供しご着用いただける事。それがMTM の魅力なのです。

残念ながら日本には洋服文化がありません。
其の為、多くのアパレルが日本人の気づかぬ間に“とんでもない洋服”を作り上げました。“デコラティブなシャツ”が大手を振ってまかり通っていますが、欧米の知識人から見れば「何と奇妙なシャツ」と思われているのです。
ルールの無いカジュアルウエアは日本流でも良いでしょうが、ビジネスや社交的な場面で着用するシャツやスーツなどは、ルールに従ったほうが国際社会において尊敬を集めると言っても過言ではありません。

私たちの使命は、「日本人にもっとお洒落になっていただき、国際社会の場面で活躍していただく。そして、そんな方々を応援する。」事です。お客様が望めば…売り上げになれば…何でもお作りします。と言う事は出来ません。そしてプロとして、本当にお客様の為になる『メイド トゥ メジャー(MTM)』をお勧めさせていただきたいのです。

…余談ですが。ゴルフクラブを特別注文(MTM)で作るとき、その人の体型や筋力などを計測してから作りますが、それがプロの仕事です。顧客の好みで作る事は決して親切ではありませんから。

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ボタンダウンシャツ物語6~B.D.シャツSPORTとは何か


新しい試みのボタンダウンシャツ「SPORT~スポート」とは何か?にお答えしたい。

世の中はやがて統計の世界に支配されそうだ。貴方の過去の“買い物”や“活動”を統計的に集計した結果、「貴方はこんなものが好みですね」とその傾向を分析して次の消費に誘導します。
即ち、過去の積み重ねが未来を決めると言う考え方です。
確かに的を射ていると思いますが、「貴方はこれ以上進化しない」と言われているようにも思えます。

人間は今まで自分が好きだった食べ物でも恋愛でも、突然、過去と正反対の傾向を持つもので、その理由は論理的ではないかもしれません。
論理的に分析出来ない“事”や“物”は、AI では予測不能です。それがある意味、人間の特性で、どんな不合理な事でも本人は大真面目で向き合います。

生きる目的、寿命、時間の概念。信じる意味。恋愛とは、過去とは何か、その意味を考える事。自分は何者かと考える事。生きる価値を考える事。また、素晴らしい音楽や芸術、デザインに心を奪われる事――人は良い物に触れる瞬間に新しい境地に導かれるのです。
そのような経験がなければ、毎日はただ昨日の続きになってしまいます。

今の世の中には必要な物は何でも揃っています。大量に生産され、思いや信念、情熱が籠っていなくても取り敢えずはそれで満足します。

私たちは、過去の世の中に存在していたが、今の合理的な社会の中で不必要とされ消えかけている“物”を探し出し、今の世の中で再現して光をあて、“今”の方々に“本物の良さ”に触れてもらいたいと考えました。それが、「SPORT~スポート」なのです。
今となっては誰もが見捨ててしまったものづくりの世界で、時計の針を戻すような馬鹿げたことと言われたとしても…

アメリカのアイビーの世界で消えかけた宝物を再現する。
それは、現代の貴方にとって、無意味な物と一笑に付してしまうかもしれません。

それでも、私たちは良い物に向かって常に挑戦します。
聴いても見てもわかりません。触れる事、着用してみる事、その体験が貴方の新しい感性を触発させると、私は信じています。

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ボタンダウンシャツ物語5~原点的なB.D.の再現


芯地なしでボタンダウン(以下B.D.)を再現する。それもかつての原点的なB.D.である。

困難といえば、我々鎌倉シャツの中堅スタッフが着用の実感を持ち合わせていない点である。弊社スタッフの多くは、IVYブーム後のセレクトショップが歩んだイタリアンテイストのシャツしか知らない。

世の中のB.D.シャツもいつの間にか原型から少し離れた襟型にシフトしてしまっている。そんな中、議論は進み、過去のアーカイブを参考に何枚もテストした。確かに、独特の襟のロールが美しい芯地なしの原型には縫製の難しさが想像できる。

実際に縫える工場があるのか?
かつてVAN のシャツを縫製していた工場は未だその技術を残しているのだろうか?
――幸いにもその工場は何名かの手練れの技術者がおり、その技を忘れていなかった。

では、パターン(型紙)はどうする。
弊社の技術陣と天才モデリスト柴山先生とのやり取りがはじまった。
柴山先生もイギリス・イタリー服の研究は最高峰を極めているが、アメリカントラッドとなると専門外だ。

そこで凄い事が起きた。
彼は自分の経験を排除し、アメリカ流儀の設計でパターンを一から考え直したのだ。其の結果、アメリカンジャケットに寄り添ったB.D.の襟型設計に行きついたのである。いわく、アメリカの設計理論は欧州のものとは異なっていたのだ。
こうして完璧とも言える、“新しく古い”B.D.シャツ誕生の運びになったのである。

弊社社員たちの期待も受け止めながら、2018年8月の販売に漕ぎ着けたのです。乞うご期待です。

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ボタンダウンシャツ物語4~クラシックなB.D.


2012年、私たちが進出したNew Yorkでは、ボタンダウン(以下B.D.)本家のシャツは形態安定となり、襟の芯地には接着芯地が使われていました。襟は固く、自然の風合いが損なわれ、襟のロールは美しいカーブを失っており、ニューヨーカー達の不満と諦めは極限に達していました。
それ故に、鎌倉シャツの柔らかい綿芯と、そのロールが高い評価を受けたのです。

この時からB.D.通の彼らの間で「B.D.論争」が繰り返されました。そんなある日、そのサイト上にこの様なコメントを見つけたのです。
「Mercer & Sonsのシャツは、今も芯地なしで初期のB.D.の原点を守っている。値段は高いがその価値はある。鎌倉シャツには優秀な技術者や熟練した作業員がいるはずだ。もし彼らがMercer & Sonsに習い現代的な体にフィットするシルエットで襟芯の無いB.D.を開発してくれれば、それは最高の物になるであろう。鎌倉シャツの価格設定は何時も顧客の味方である。そうなれば、鎌倉に勝るシャツは存在する事が出来ないだろう…」

Brooks Brothersが発明したB.D.シャツは、クラシックアイテムの象徴として長い間生き続けてきた。それはファッションにおけるクラシックであるが、音楽と同じように、楽譜は同じでも演奏のされ方は時代の感覚に沿ったものであった。

このように考えると、私たちの再現するB.D.は、アメリカ流の縦の線を持つI型(VAN 時代の胴にくびれの無いストレートシルエットのジャケット)に合わせつつ、襟は縦のラインを持ちながらも襟のロールが美しく出なければならない。しかし、初期のB.D.シャツのシルエットはかなり大ざっぱで、体に沿う曲線を実現出来ていない。これはむしろ現代の技術で改良すべきだと考え、マンハッタンモデルのボディを搭載した。

蘇る、襟芯なしのクラシックなB.D.シャツ「SPORT~スポート」は、ニューヨーカーの期待にも応える“新しく古い”名品となるであろう。

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ボタンダウンシャツ物語3~日本のB.D.誕生秘話


これは、VAN JACKET企画部長だったくろすとしゆきさんから直接聞いた話です。

くろすさんはIVY研究の第一人者として、1960年代にVAN社から乞われIVY LOOKの日本展開にあたる最適任者として入社されました。
それでも1965年のIVY8大学を訪問するまでは、詳しいIVY事情は分からなかったのです。

アメリカではボタンダウンシャツ(以下B.D.シャツ)と言う、襟にボタンが付いたシャツがあるらしい。どうしてもそんなシャツを着てみたい。父親の行きつけのテーラーで、とにかく分からないなりに襟にボタンが付いたシャツを仕立ててもらったそうです。
それを友人のミッキー・カーチィス(アメリカ帰りのミュージシャン)さんに自慢すると大笑いされ、全然似ても似つかわない!本物はこうだ!と教えられたそうです。知らないという事は恐ろしいことだ―と思いボタンダウンとはなにかを教わった。と語ってくれました。

当時、VAN がドレスシャツとしてB.D.シャツを発売しましたが、スーツに合わせるよりもJACKETにあわせるのが主流でした。ドレスにもカジュアルにも着用できる汎用性から、水陸両用のシャツと呼ばれ、綿パンにB.D.シャツスタイルは、瞬く間に高校生・大学生の間に浸透していきました。
その勢いは、既存のシャツ業界に衝撃を与えました。こぞってVAN製B.D.シャツの物まねが始まりましたが、その奥に潜むB.D.シャツの真髄を理解したわけではなく、益々VANを有名にしてくれました。VAN は一流ブランドに押上げられたのです。

B.D.シャツの素材はオックスフォード“よんまる とうばん(40番手)の縦糸の引き揃え”に“10番手の横糸を打つ”東洋紡の紡績を西脇の機屋で織り上げる。これが基本でしたが、1970年代にRalph Laurenが、このIVY LOOKに革命的なひねりを施し、ライフシーンと共に新しいスタイルを提案。現代の風を吹き込みました。そう、彼はBrooks Brothers社出身のデザイナーだったのです。
彼はB.D.シャツにも新風を吹き込み、以来B.D.シャツは、現代風が主流になっていきました。それにイタリア風も加わり、オリジナルは消滅の一途でした。
アメリカでも自国の生産は激減してしまい、東南アジアでの生産にとって代わられました。ここで、細部への拘りなどの技術は継承不可能になりました。

2010年、Graham Marshさんの『THE IVY LOOK』が出版され、IYYを知らない若いアメリカの服飾デザイナー達に大きな衝撃を与えました。
自分達の国にこんな素晴らしい服飾文化があったのだ。古臭いが温もりがあり、安らぎを感じる。近代社会が忘れてしまった何かがそこにある。

古い遠い思い出の中で、潜在意識の片隅から、今こそそれは新しいと感じているのでしょう。皆さまにも、私たちの新しく古いB.D.シャツを感じて戴きたい。

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ボタンダウンシャツ物語2~古き良き時代のB.D.の復活


ボタンダウンシャツは、シャツの世界では特別な存在である。

私が働いたVAN JACKET(株)の1966年から1978年、この会社のドレスシャツの売り上げの80%はボタンダウンシャツ(以下B.D.シャツ)であった。
私にはこれが当たり前であったのだが、VAN が倒産して外の会社で働くことになった私は思い知らされた。B.D.シャツはシャツ業界では殆ど生産されておらず、しかも、紳士シャツ売り場では“売れないシャツ”の代名詞であった。

私は古いB.D.シャツを繰り返し洗濯して着用していた。
ある時、銀座でSHIPSさんがUSA MADEのB.D.シャツを販売していた。こんなに素敵なお店があるのかと、嬉しいと同時にVANのIVY LOOKを継承しているセンスの良さに感動した。
その反面、デパートのシャツ売り場にはB.D.シャツは無かった。あったとしても見様見真似でシャツ襟にボタンを付けただけのもので、襟のロールに配慮がなく、勿論購入の意思も無かった。
誰もB.D.シャツを知らないのだ。

SHIPSさんは凄い勢いで若者の心を掴んでいった。VAN の卒業生でないブランドが、こんなところで、IVY精神を土台に品揃えを完成させていたのだ。もしかしたらIVY は不滅かもしれない、思い出したくないVAN 時代であったが、気品の漂うIVY STYLEは忘れがたいものであった。

VANを離れて15年。
ある時石津謙介先生に「日本人が国際化社会に挑戦する時代だが、誰が彼らを応援するのだ。日本の負けている生活スタイルの中で、歴史を持たない洋服こそ、自己表現のメディアとしての誰かが伝道師にならねばならぬ。」とお叱りを戴いた。同時に、私は先生にシャツ屋開業を誓った。

かつてVANの愛好家は全国に60万人以上いたはずだ。そして、彼らの殆どはB.D.シャツの愛好家でもあった。例のB.D.を復活させれば、全国のB.D.シャツ愛好家を顧客にすることができるのではないか?

鎌倉シャツの誕生も、New York進出も、摩訶不思議なB.D.シャツの秘める力に助けられたのです。

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■ボタンダウンシャツ物語1はこちら

ボタンダウンシャツ物語1~アメリカで誕生したB.D.


Kamakura Shirtsは、ボタンダウンシャツ無くしてNew Yorkへ進出することはできなかった。

ドレスシャツはイギリスが発明したもので、世界を席巻している。しかし、このボタンダウンシャツ(以下B.D.シャツ)は唯一アメリカの発明品であり、Brooks Brothers社が1890頃に発売を始めた話はあまりにも有名である。
ポロシャツの襟が捲れ上がるのをボタンで留めたのが始まりであるが、奇妙なシャツと受け止められても仕方のないデザインであったと思われる。しかし、イギリスへの対抗心からか、はたまたその合理性からか、アメリカを象徴する物としてその地位を確立した。
アメリカアイビーリーグ8大学の学生が日常着として愛用するAmerican Traditionalウエアとして、また、そのスタイルの代表的なアイテムとしてアメリカ人の誇りとなった。

私は幸いにして、この8大学(IVY校)を研究しIVY LOOKを日本に広めた石津謙介先生のもとで働いたのである。50年前のことであるが、今や本場のアメリカでもこのIVYスタイルは継承されておらず、IVY LOOKは日本にしか伝承されていない。とまで言われている。
しかしながら、アメリカの良家に育った方々は、子供時代の記憶が残っており、さらに昔を知る紳士・淑女たちのノスタルジックなスタイルに対する愛情は想像以上のものと考えられる。

2008年、New York出店を決意して現地の調査を始めたが、心の故郷であるBrooks Brothers社はイタリア人の経営となり、古き良きB.D.シャツは形態安定素材になっていた。襟のロールに昔懐かしい面影はなく、ニューヨーカーの嘆きは諦めに変わっていた。
幸いにも私は古き良き時代のB.D.シャツを知っている。
これを武器にニューヨーカーの切望するボタンダウンを再現させよう。其のスタイルを提案すれば、たとえ日本人であっても、彼らが望むスタイルの理解者が提案するのであるから、受け入れて貰えるに違いない。これが秘めたる自信であった。

開店初日からボタンダウン愛好家が押し寄せてきた。「何故お前は襟のロールの事に詳しいのか?」「本当にMade in Japanなのか?」「この価格で経営ができるのか?」「なぜイギリス人のGraham Marshがお前を推薦するのか?」(Grahamさんはイギリス人であるが、ジャズやIVY LOOKの研究者であり愛好家で、その著書『THE IVY LOOK』はベストセラーであった。)
そう問う彼らが試着したB.D.シャツは最高の評価を戴いた。恐れていた人種差別的な事は何も起こらなかった。むしろMade in Chinaしか選択肢の無くなったアメリカにMade in Japanが良く来てくれたと歓迎された。その広い心、良い物は良いと素直に認める文化に感動した。

New Yorkに進出して5年が経過した。
現地のニューヨーカーは、我々に更に高い水準のB.D.シャツを要求してきた。しかも初期型に近いB.D.シャツの再現であり、未だシャツの芯地が無い時代のつくりである。シャツは2枚生地が重なる部分は芯地をあてがって厚みを出し、上下のシャツ生地を安定させる…そのために芯地は欠かせない。その縫製を可能とする工場はほとんど残っていない。しかし、完成させれば襟のロールは更にエレガントに仕上がり、古き良きシャツが再現されアーカイブが蘇るのだ。

そして、かつてVANのシャツを縫製していた工場には、その技術を再現するスタッフが未だ現役で活躍していた。

2018年8月から発売をはじめる鎌倉シャツのB.D.シャツ「SPORT~スポート」は、まさに弊社にしかできない古き良き時代を彷彿とさせる自信作である。

B.D.シャツは不思議なシャツで、ある時はドレスシャツとして、またある時はカジュアルシャツとして着用できる便利なシャツである。アメリカの合理主義の結果生まれた、アメリカ人の故郷でもある。
50年前のVANフアン30万人が、このB.D.シャツを愛用したのである。

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絶体絶命


それは、全く予想を越える出来事だった ―

1980年のニューヨーク・マンハッタンは、地図の至る所が危険地帯として赤く印されていた。語学堪能な大手アパレルの課長さんが、夜の街に出かけて帰らぬ人となった。と報道される、まさかが現実になっていた時代。私は新ブランド提携の交渉に、三菱商事の杉田徹さんと1980年11月、二度目のニューヨークに向かった。

交渉が一段落した日曜日。充分に時間もできた。キャナルストリートで念願のガーバージャックナイフを買い、ついでにチャイナタウンで昼ごはんをと考え、49丁目のレキシントンホテルをひとり出発。日曜日の地下鉄には通勤客がいないので、絶対乗らないで欲しい。と、旅行会社から厳しく注意を喚起されていたが、お金を節約と歩いて行くことに決め、危険地帯を避けながらソーホー方面に向かった。
ユニオンスクエアーは危険地帯であったが、どうしてもそこを通ってキャナルストリートに行かねばならない。そこで、同じ方向へ歩いている数人の白人に同行することにした。
これならば安心と思っていたが、やがて白人たちは一人また一人と道沿いの家に消えて行った。ふと気が付くと、何と私ひとりになっていた、しまった!と思ったがもう遅い。せまいストリートには、日なったぼっこしている黒人のなんと多い事か。舗道は黒人で埋め尽くされている。

覚悟を決めて道路の真ん中をゆっくり歩くことにした。何も起こらなければ良いが・・・と念じながら、道の半ばにさしかかった。案の定、遥か遠く真正面から、2メートルもあろうかと思われる黒人が、私を目がけてゆったりと向かってくる。逃げる事はできない、周りの黒人たちは皆様子を窺がっている。私が目標でない事を祈るしかない。
覚悟を新たにして、とにかく自分の道を進む。すると、目の前に迫った巨人はいきなり私を上から抱え込んだ、来た!そのデカイ事。身動きができない、なすすべもない。
彼は、耳元で「ギンマー、ギンマー」と呻いている。ギブ・ミー・マネーの意味だろうか・・・
ポケットに手を突っ込むと、“銃を取り出す”と思われ反対に撃たれる可能性があると聞かされていたので、お金を取り出す事もできない。
私はただただ、「ノー、ノー」と声を押し殺して答え続けた。

何度も押し問答をしていると、彼の吐く息の臭い事、さらに彼の体が左右ゆっくり揺れている事に気づいた。もしかしたら 麻薬中毒?と、彼の揺れに体を任せその振幅が大きくなったその時、思い切り彼の体を抛り出し、見事に彼を投げ飛ばした。その瞬間、周りの黒人が一斉に立ち上がった・・・危ない!
心臓が張り裂けそうであったが、あわててはいけない。道路に横たわった彼に「カモン」と声をかけ、手を差し伸べて半身を起こしてあげた。
彼はそれ以上襲いかかってこなかった。そうなれば大変だったが、私は何事もなかったように振舞い“柳井音頭”を口ずさみながら漸く、大通りにたどり着いた。助かった・・・命拾いした!

怖くて怖くて脚の震えが止まらない。通りかかったタクシーに飛び乗りホテルに直行した。部屋に戻ればもう安全だ。しかし、それからどれくらい震えていただろうか?やがて震えも収まり冷静になってみると、こんなに恐れ慄いたとこは無い。無残な怖がり方であった。
どうして、こんなに怖がったのだろうか。誰も見てはいないが、恥ずかしいし、情けない。
こんなことで、こんなに怖がる自分。臆病者と認めて生きるのか・・・我ながらみっともないし、許されない・・・この恐怖を克服しなければ、私の今までの誇り、自尊心を失ってしまう。よし、もう一度同じ場所に行こう。同じように初めからあの道を歩いてみよう。これができなければ、私は勇気のない臆病者で終わってしまう。

同じ道までタクシーで向かった。なに食わぬ顔で歩き始めた。何故か危険は感じない。左右を見ると黒人は私を凝視している。私を覚えているようだが、敵意は無いと感じる。手を振って挨拶すると、彼らも手を振って応じてくれる。もう安心だ。ゆっくりストリートを渡り切った。やった!!!ついに自分の恐怖心を克服した、私自身に勝利した瞬間であった。

私には大きなかけであったのだが、後に誰からも、何とバカなことをしたのだ。命がいくらあっても足りないぞ。と揶揄されたのでした。

メードインジャパンの将来はお客様の支援が必要です。


日本の繊維製品の国内縫製比率は2.7%を下回る現状です。
約40億枚の流通量の内、約1億枚である。
海外製品の流入は39億枚、しかしながら正規で販売されるのは60%、23億枚強、16億枚がセール又はアウトレットで販売されていると考えられます。
正規販売で60%正規消化であれば、会社が利益を出そうとすれば小売価格の15%から20%の原価率が求められます。
こう考えると国内で商品を作ることは、難しくなります。
海外比率が高くなり、低い賃金の国を求めて工場探しが始まり、工場建設が、2000年ころから主流になっています。
このことが一時的に会社の延命につながりますが、大量に注文する、シーズンの9ヶ月~1年前から注文しなければなりません。
マーケットの変化・消費動向の変化が予測されても、注文が大前提で物づくりが先行して行われます。
見込み違いをして正規で50%又は40%しか売れなくてもなんとか利益を出すためには、出来るだけ原価の低い事が最重要です。
低価格低原価に拍車がかかり、15%・20%が当たり前になります。
そうなるとこの価格でこの品質、価値観が感じられない、やがて消費者からNOを突き付けられます。
これが現状の一端であることは間違いない事実です。

例えば、弊社のマンハッタンモデル、5,900円を海外平均原価率で作ったとしたら、15%で885円 20%で1,180円です。
私たちはメイド・イン・ジャパンで、工場様には縫製代金を1,450円支払っています、これは市場価格の25%になります。
それに生地代金、付属品包装費、運賃が加算されます。

また、高級な生地を使用しています。
ボタンも天然の貝、プラスチックの10倍です。
それでも、正規販売率が99%であるので、海外輸入価格で原価を抑えなくてもなんとか生き延びていけます。
売れ残りを“捨て値販売”する、等の無駄を排除し、さらにお客様に価値ある商品をご提供する事ができます。
勿論一切の無駄を排除して、私たちの会社はローコスト経営に徹しています。
現金決済と少数精鋭主義を貫いています。

このように国内生産であっても、経営が可能であることを創業25年存続をもって証明してきました。
ローコスト経営・正規商品消化率・最短距離物流・品質の確保など、国産の優位を証明してきました。
しかしながら、1993年の創業以来、国産比率は激減の一途です。
日本の物づくり、お家芸と言われる精緻な技、これを守るためには、生活者の皆様と一緒に、より情緒豊かな、文化性のある、生活スタイル、服を通じた自己実現を目指し、質の高い人生を、一度しかない人生を豊かなものにしたいものです。

更に言えば 人は良いものに触れて、成長する、良い物の力で、その人は新しい次元に導かれるのです。
これは理屈ではなく体が感じ取るのです。
「百見は一触にしかず」とカンブリア宮殿で申し上げた事なのです。

四壽(ヨンスン)永遠のライバル


彼は私の住む柳井市柳町に突然現れた。私が小学校4年生の時である。

私は柳町のガキ大将であった。
学校が終わり 仲間たちと、缶蹴り・チャンバラ・鬼ごっこ等、毎日楽しく遊びに明け暮れていた。
勉強など誰もしていない、良き時代である。

彼の名は白川 四壽(ヨンスン)大柄で切れ長な鋭い眼光の持ち主で結構ハンサムであった。
彼は韓国人が集団で住んでいる、地域に家族と共に引っ越して来たのである。
彼らは豚を飼育し、山羊を飼い、鶏を育て、その地域は動物糞尿などの入り混じった独特の臭いのする、集落であった。
我々が簡単に踏み込めない独特の雰囲気を醸し出していた。
彼はそこからやってきたのである。今考えてみると、彼は私たちの仲間になりたかったに違いない。
彼は強引に我々グループに割入ってきた。仕方なしに仲間に入れて遊ぶのであるが、どうしても波長が合わなく、途中で喧嘩になってしまう。当然ボスの私と取っ組み合いになる。
私も喧嘩慣れしていて、自信満々であったが、彼は何時も巧みに私の背中を取り、軽々と私を抱え上げて地面に叩き付ける。
恐ろしい力で、その衝撃は声も出ない悶絶の一歩手前である。
呻いている私を見下し、彼は悠然と引き揚げていく。
何度戦っても絶対に勝てない。
何時もの結果が待っていたが、私は絶対に“参った”と言わない。
勝負は決着していない。でも私には勝つ術がない。そんな日々であった。

5年生になっていた、ある日、私の家からほど遠くない坂道の八百屋の前で、先輩に交わって遊んでいたら、彼ヨンスンが現れ、私に喧嘩を売ってきた。
激しい言葉の応酬の後、彼は一旦引き揚げ、青竹のこん棒を引っ提げてやってきた。

彼は私を殴ると言う、殴れるものならやってみろと、一歩前に出た。
まさか殴る事はあるまい。
得物を使い喧嘩するのはルール違反だ。たかを括っていた。
しかし彼は青竹を振るってきた。頭を一撃された。痛みよりは、まさか?の驚き。
思わず左手を頭にやると、生ぬるい血がべっとり手を濡らしている。
やがて顔面一杯に血が垂れてくる。
彼はその出血の凄さに顔面蒼白になっている。
私は痛みよりは、これで彼に勝ったと思い、このチャンスを逃すものかと、逃げ込んだ彼の家まで追いかけた。
玄関前で「ヨンスン出てこい」と叫ぶ、何事かと両親が顔を出す。
その驚いた様子に私は大声で 「まどえ まどえ」 (元に戻せ 償え 柳井弁である) 何度も連呼した。
あの大きな親爺さんもぶるぶる震えている。ヨンスンを出せ、私は勝ち誇って大声でわめいていた。
異変を聞いた長女の葉子姉さんがやってくる。
「よちゃん、どうしたの?」
「大変だ、直ぐお医者さまに」 と近くの外科医に連れられた。

%e4%bc%9a%e9%95%b7%e5%86%99%e7%9c%9f160615_01-up幸い2針の縫合ですんだが、頭は包帯でぐるぐる巻きだ。
名誉の負傷だ。この姿は迫力満点だ。

家に連れて帰ろうとする姉を遮って、やり残したことがあるからと、再度ヨンスンの家の前に立つ。
「この包帯が見えないのか、 まどえ まどえ」 怖がって誰も外に出てこない。
完全な勝利をものにできた。トドメを刺したのだ。
代償に山羊を戴くことにした。
「山羊を貰っていくぞ」 と大声で、繋いであった山羊を引いて帰る。
山羊がどれだけ彼らにとって貴重であるかは判っていた。
家に山羊は必要ない、帰り道の川の辺から山羊を蹴落とした。
山羊は大丈夫、泳げるし、親爺は直ぐに助けるに違いないから。
その時以来ヨンスンは私たちの目の前から姿を消した。

あれから、何十年経っただろうか。
彼の事は忘れた事はない。40代後半の出来事である。
広島に墓参りに帰省した。
長男の経営する洋品店の入り口前に、七半(ナナハン)と呼ばれる大きなバイク3台が何時も駐車され、困っているという。注意すれば良いではないか?
兄は、「それが難しいんじゃー」
どうせならず者の仕業だろう。困ることは困るのだから。私はすぐさま、大きなバイクを移動させようとした。そのときである、3人の大柄なやくざ風の男たちに囲まれた。
「何をしとるんじゃい」
今にも殴りかからんばかりのその時、突然恰好よい偉丈夫いかにもやくざの兄貴分風の彼は、いきなり3人のやくざ者を平手打ちして、「てめいら、何をしとるんじゃあー」
「お前らが束になって掛かっても勝てる相手じゃない」、と私を見つめ、「よちゃん、久しぶりじゃ、
あんたは強かったのおー」 彼が手を差し出し、握手した。目を見つめあった。
もし今度何かあったら、この俺に連絡してくれ。

奇跡の一瞬であった、懐かしいライバルが救世主として、現れたのだ。
彼も忘れていなかったのだ。
喧嘩に明けくれた、わんぱく時代も無駄ではなかったのだ。
何時も怯まないでいたい。こんな道を歩いてきた。
彼は秘かに私を尊敬していたのかも??嬉しかった。

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取締役会長 貞末 良雄

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