Maker's shirt 鎌倉

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究極のトラウザーズ


ウェブサイトで、シャツの販売をスタートした時から皆様のご意見の中で、「メーカーズシャツ鎌倉のシャツに合うネクタイは?」「パンツ(トラウザー)はジャケットは、どんな店でどんなブランドを購入すればよいか推挙して欲しい」あるいは、私たちの手で「そのような服種を開発して欲しい」というご意見を戴く機会が益々多くなってきました。

上衣を脱いで、シャツとパンツスタイルという瞬間が多いビジネスシーンで、スーツの組下であるパンツがあまりにも粗末な作りがされている。
上衣には色々こだわりが語られているが、組下のパンツには日本のメーカーで深く研究している処がないのではないか。
市場を調査すると、有名セレクトショップで販売されているパンツ(トラウザー)の80%がイタリア製で占められている。
これらの製品の素晴らしい出来映えは感動に値する。
確かに若い体型には穿きこなせても、所詮イタリア人体型に合わせて作られている。
値段も3万円~6万円とかなりお高い。しかしながら、これが多くの人たちに支持されている。
パンツメーカーの多くは工場の下請けとして位置する。
スーツメーカーの大半は、自社内にパンツ縫製部門を置かず、協力工場に依頼する。コスト圧縮はどうしても下請けのパンツ工場にしわ寄せられてしまう。
こんな状態が長く続いた日本のパンツ縫製には、手のかかる細部のこだわりを実現することがむつかしくなっている。

イタリアでも同じ事が起きていたが、パンツ工場の中でもスーツ工場の下請けから脱却して、自分たちの技術、こだわりを販売するところが現れた。
彼らの穿き心地のよい、スタイリッシュなパンツは、またたく間に市場での評価を獲得した。
イタリアのパンツは日本の市場も席捲してしまった。
日本のパンツ工場では、このような動きは全く無く、もしかしたら古い伝統技術が継承されていないのではないか。

私たちは、イタリア製に負けないパンツを世に出そうと決意しました。
日本人の体型に合い、若い人たちだけでなく、少々下腹が出てきた中高年のお洒落心を持ち続ける人たちに、下腹をしめつけ(コルセット効果)、尻に生地のたるみが出ない、まことにスタイリッシュなパンツを徹底的に立体縫製することで実現させるべく、パターン・縫製の第一人者「平塚明」、生地開発の超ベテラン「成田靖」、メーカーズシャツ鎌倉創業者「貞末良雄」、日本人が100%経営する中国ハンドメイドスーツ工場のスタッフの協力を得て、2003年9月22日よりオンラインショップを開始する運びになりました。

全て重要な細部はハンドメイドであり、選び抜かれた素晴らしい生地を使い、現代の香りを込め、若い人も中高年の方々にも本当に喜んで戴けることを、このビジネスの理念としてスタートさせます。ブランド名は「TEX TEQ」(テキスタイル(生地)とテクニック(技術)を徹底的に極めるの意)。ご期待下さい。

モノ創りの思想


先日、日本を代表するモーターバイクの販売店の方々と話をする機会を得ました。
彼らは日本のバイクは世界一だ、その普及率、日本や東南アジアでの驚異的な販売量。
しかし、それらはいつも彼らの国にコピーされてしまう危機に瀕している。
さらに現在、自分たちの売っているものは、トライアムフやハーレーダビッドソンにはどうしても勝てない、何故なんでしょう?

確かにA地点からB地点に移動するものとしては、最高のものを日本は創ったのですが、今、人々は単にA地点からB地点に速く移動することだけで満足するのでしょうか?
A地点からB地点へ速くではなく、楽しくその道程を味わいながら、癒されながら、移動自体が目的のようなモノの使われ方をするのではないでしょうか。
その時、私たちには、そんな文化的情緒性を込めたモノ創りが思想として在ったのでしょうか。
ハーレーに乗って旅するヒゲ面のおじさんに「かっこいい」と憧れる人たちが増えてきたのです。
皆さん、目を覚まそうじゃありませんか!

伝統と誇り


私の師匠である石津謙介氏の経営する会社(VAN JACKET)に売り込みに来るセールスマン(工場や生地の取引先)に対し、会社として考えているクラス(テースト/品位)に応じた服装をしない人達との取引は遠慮願った。

当時、少々行き過ぎると思ったが、やがてその噂が伝播し、VANに行くには、先ず身だしなみからということが、どれほど業界に強い影響力を持ったか計り知れない。
およそ、ファッション業界やライフスタイルビジネスを謳う会社で働く者は、それが人々に新しい快適な生活の在り方や夢を与える仕事をしているわけであるから、従事している人々が率先して自ら他人に好印象を与えるべく、自分の生活スタイルや服装を考えなければならない。
会社のトップに居る方々やそこに働く人達は、社風を販売するような企業文化が求められている。

私達日本人は、戦後復興の過程で、安く高性能でそれを効率的に早く正確に作ることで、驚異的な尊敬を集め、made in Japan というBRANDを確立したのですが、それは、勤勉と忍耐と高度な教育、持ち前の器用さで支えられました。
それらのファクターは、日本を手本に学ぶ発展途上国によっても実現可能な要素であったのです。達成したクオリティーに加え、さらに文化性のある情緒を刺激するものでの進化が必要なのです。

生活のクオリティーから生まれる文化的、情緒豊かな内面から滲み出て来る…数値によって推し量ることの出来ないもの、その文化性豊かなものに、自分の将来の夢に描くライフスタイルと重ね合わせることが出来るようなモノを生み出していける、そんな仕事をするために、先ず自分の服装、スタイルの検証を始めようではありませんか。
メンズスーツを作業服として着用するのか、長い伝統とクラフトマン(職工)としての誇りに裏打ちされた、作り手の意志や願いが伝わってくるような服を一点でも身につけ、そのエネルギーに助けられ、身の引き締まる瞬間のパワーを発揮する、そんな仕事をする自分を想像してみて下さい。

最重要なツールとしての服装


私達の日本社会では、その人を評価する時、学歴や家系、さらには勤めている会社が重要で日本人である以上、最小限の素養を有し、生活の背景も予想でき、政党の何処、何を支持することも、その人となりを見抜くことが出来るのです。

初対面の商談に失敗しても、後からの再挑戦も可能であり、商談後に一杯やりながら相互理解を深めることが可能なのです。
このような局面では服装の持つ意味は相対等に低いものになってしまうのです。
このため、日本のビジネスマンの大半は自分の着る服を恋人の選択や妻に任せてしまい、結果として説得力のない服装に帰結しているのです。

あるイギリス人が、日本人の男性が自分の服を他人が購入すると聞いて絶句したことを思い出します。
ルーツ・文化背景の違う民族が入り乱れて生活している陸続きの国や、アメリカのような移民大国では、初対面の人のルーツや価値観など判る筈もありません。
唯一の手掛かりは、服装であり、その人の挙動なのです。商談の80%は初対面で決まり、服装は最重要なツールとしてアメリカのセールスマンがいつか1,000ドルスーツを着る、そんな理想を追っているのです。
そのスーツをパワースーツと呼んでいます。果たして日本でこんなことを意識している人がどれくらいいるのでしょうか。
紳士服業界が衰退するのも、こんなところにも原因があるのではないでしょうか。

Made in Japan (メイド・イン・ジャパン)の評価


私達は初対面の人に対する礼儀として、その服装の重要性をどれくらい認識しているでしょうか?

島国として孤立してきた日本人は民族衣裳をまとう限りにおいては、ルールを熟知し清潔さを保つことで何の支障もなかったのです。
【従って、人は服装によって判断してはならない】本当のような逆説が正しいような諺が生まれました。
それでも、やはり人は服装によって大いに判断されてしまったのでしょう。

さて、1945年第二次世界大戦で焼け野原になった日本は、まず食べることが第一で、暑さ寒さを凌ぐ衣服すらなかったのであります。
やがて、終戦のショックから立ち直り、猛烈に勤勉に他人を批判する閑もなく、がむしゃらに働き復興を遂げていくのであります。

1954年にはフランスからクリスチャンディオール関係者の来日などによって、ようやく食べるだけの生活から、まずは女性がファッションに目覚めていきます。
紡績や合繊メーカーがファッションを謡い、「装苑」という婦人雑誌に付録で型紙が提供され、ハギレ生地で簡単服を自前のミシンで縫い、よそ行き着が生まれたのです。

生活のスタイルは映画や漫画本でみるアメリカの豊富な物質文化、冷蔵庫には大きな牛乳瓶、バターやチーズ、美しい家、人々の服装、振る舞い。欧州よりもさらに物質の豊富なアメリカに追いつけ模倣するという欲求が日本人の今現在のライフスタイルを形成していったのです。

やがて私達日本人は世界の仲間入りをし、さらに飛躍して世界の経済大国として、大きな力を持つことが出来るようになりました。
勤勉で質の高い均一な労働による工業製品の質の高さは日本がまさにブランド化したのであります。

Made in Japanのブランド。世界が驚異の目で日本を認識したのであります。
日本 Made in Japanとして受けた評価は全体としてであり、個々のビジネスマンがどれほど積極的な評価を得ているかということになると少々不安であります。

紳士服は英国に学ぶ【2】


イギリスの貴族達は広大な土地を有し、それを貸して得る収入で悠々の生活をしていた。
お金を稼ぐ要もなく1年の大半は田舎の広大な土地でハンティングに明け暮れ、体を鍛え、 いざ戦争という時には真っ先に戦場に馳せ参じ命を賭けて戦った。
ノーブレスオブリージュ(高貴なる者に伴う義務)、日本の昔の武士道みたいなものがむしろ庶民の尊敬を集めていたのかもしれない。

フランスの貴族はあまりにも自分達と違う彼らの生活態度、そして彼らがロンドンに滞在する一期間正装して着用するスーツ、 一見して無骨なスタイルが彼らにとってこの上もなく美しい物に見えたのではないだろうか。
彼らはフランスに戻り英国調のスーツシステムを礼賛し、キュロットを着用しなくなった人々にもあいまって強い影響力を持って伝播していった。

カントリージェントルマンは美しかった、すなわちいつ戦闘が始まってもよいように、身・心は鍛錬されていたのである。
この人達の着用するスーツ姿はこれまでの貴族からみると、天と地の差があったのではないだろうか。
宮廷で酒と美食に耽っていた貴族は、梨型すなわち下腹が出ているということ、短足、デブが基準であり、これが一般的であったから驚きである。

英国では1750年頃からポンペイ等の遺跡の発見によって発掘されたアテネのアクロポリスにあった古代ギリシャの大理石の彫刻、 アポロン、ダビデ裸像の美しさが英国紳士の究極の体型となっていく。
この体型にこそスーツ姿がダンディズムとして進化していくのである。
仏国の紳士達もやがて同じ思いにとらわれていく。
紳士たるべく男性の当然の帰着であり、やがて英国流の紳士服飾術が世界に拡大していくことになったのである。

紳士服は英国に学ぶ【1】


そのネクタイメーカーはBREUER、社長はALAIN。
私はアランに「何故あの英国嫌いの仏国人がメンズウェアは英国調なのですか?」と問うてみました。
さらに、「フランスにはオペラ通りに有名なオールドイングランドという店がある。博物館のように古いコレクションから現代のものまで巨大なショップで今も栄えているのは何故ですか?」
また「婦人物では成功していないラルフローレンショップのMEN’S WEARは大変成功していますがそれは何故ですか?」 「確かにフランス人は英国人の無骨さや食べる物に対する無頓着さを軽蔑すらしていますね?」
彼の会社は1890年創業で、米国ではブルックスブラザース兄弟が確かボストンで仕立屋をこの前後に開業している。
アランは「英国の服飾が古い伝統もあり良いからだ」と応えた。
私は「スーツの神話」で語られている歴史考証をさらに噛み砕いて次のように説明した。

「メンズファッションの起源【1】」にあるように英国では1666年10月7日 チャールズ2世が宮廷における紳士の服飾をスーツシステムとした。この服飾術は隣国のフランスではこれらの服飾は約200年も全く受け入れられないでいたのであった。

時は1789年、フランス革命勃発。華美に耽け贅を極め、堕落した貴族に反発。サンキュロット派が革命の旗手となった。サンキュロット(キュロットを着用しない)派はこの頃貴族の特徴であったキュロットを着用する人々を皆殺しにした。
これ以降貴族はキュロットを着用しなくなったが、 一方難を逃れ隣国のイギリスに逃避した貴族は英国のカントリージェントルマンのライフスタイルにいたく感動した。もちろんフランスのようにこの国では革命は起きなかった。

国際社会における 洋装着用技術の重要性


私がメンズファッションの基礎知識で強調したいのは、この洋装着用技術が国際社会で活躍する場合、私達日本人の想像を越える重要性を持っているからである。

私の体験など取るに足らないものではあるが、幸いにも紳士服飾アパレルとして一世を風靡したVAN JACKETに就職し、 社長であった石津謙介先生から欧米社会に接して行く時の「何時、何処で何を着ていくか」(このタイトルで出版もされている)初対面の最小限のマナーとして教わることが出来、何年か後にニューヨークで米国ブランドライセンス取得交渉の折、 進展しない状況の中で、先方の社長から二人でと夕食を誘われ、「仲介の日本人の服装がどうしても納得出来ないでいたが、君の服装を見て、私の服作りやファッションに関する自分の哲学が理解してもらえるのではと直感した。
君が本当に責任者としてやるならライセンスを与えよう」こうして長く続いた交渉は、私が現れてその晩に決着したのであった。

仲介の人にはこのことは申し上げることも出来なかったが、 その後、欧米の方々との交渉時にも何時も服装の第一印象が交渉を有利に導けたことは石津先生のお陰であり、感謝は深くなる一方でした。
私は益々清潔で礼儀正しく、さらに国際社会における服装着用に気配りするようになったのです。

今、フランスの著名なネクタイメーカーとの輸入提携をすすめていますが、やはり私達のスタッフ数名が交渉の場に臨んだ時、 先方の社長がその服飾を見て、驚嘆感銘し、言葉を交わす間もなく交渉の進展がなされたことは紛れもない最近の事実としてお伝えしたいのです。

2002年9月からはこのフランスネクタイメーカーとの共同企画のネクタイがメイドインフランスで販売される予定であります。
このフランスのネクタイメーカーが110年の歴史を持ち、何故英国のブリティッシュテイストのタイを造り続けているのか、あの英国嫌いのフランス人がと思うのでありますが、フランス人男性といえども紳士服は英国に学ぶ、まさに英国におけるジェントルマン道が世界の基準であることの証明のようにも思えます。
そのルーツは次回に譲ることにいたします。

メンズファッションの起源【4】


我が日本では、この洋服が明治4年の宮中会議で羽織袴から洋服を正式の制服とすべしと古い伝統を断ち切って決定された。
それ以来、皇室関係者、政府近代化に伴う新しい職業に携わる人々の制服として洋装が広がっていくことになる。
もちろん英国がお手本である。

当然この時代の洋装は1870年頃であるから、今からみると完全にフォーマルウェアの装いであった。
従って、シャツは白しかなく、「白=ホワイトシャツ=ワイシャツ」と呼ばれ、一方、フォーマルのシャツ衿型は、カットアウェー(ワイドスプレッドカラーのさらに角度の広いもの)カッターシャツとも呼ばれたのではないだろうか。

洋服は羽織袴に比べて、充分機能的であり世界の人達と交流する時に違和感を与えない、列強の国々とも同一線上に並んだ誇りや、相手に対する礼儀としても当時の人々はその有用性を強く感じたのではないだろうか。

高貴な存在である人々や新しい社会における支配層の職業人が着用するこのフォーマル性の高い洋服はそれに憧れを抱く庶民によって受け継がれて急速に伝播して行ったのである。
とは言っても、それは一部の人々に限られ、洋装が日本国中に広く浸透していったのは、昭和26年に衣服の配給制度が終了し、朝鮮動乱による好景気で、ようやく日本人も食べることだけが目的の生活から脱し、服を着ること、お洒落に装いたいという欲望に目覚めた昭和30年代以降(1955年)ということになる。

私達日本人は洋装の歴史を日本全体で体験し始めて、いまだ50年もたっていないということを自覚せねばならない。
すなわち、私達には洋装の遺伝子を持っていない民族なのである。
この謙虚な自覚こそが素直に学ぶ姿勢となり、洋装術の進歩を促すものと思っている。

メンズファッションの起源【3】


男の戦場でありパブリックな世界における服装は、少なくともその人の生活の背景や知性 、美的素養を語るものでなければならない。
そのため、最低のマナーとしての服装着用マナーとしてのルールが形成されていくわけであり、それが1850年代頃に確立したと言われるウェストエンド(西の端の国=英国)ルールなのです。

私もこのルールブックを捜しているのですが、断片的にはよくフォーマルウェアの着用ルールやネクタイのフォーマル性からタウンユース(英国流カジュアルウェア)までのルールである。
ちなみにプリントタイはタウンユースであり、フォーマルやビジネスの世界では着用されない。

英国で生まれたスーツシステムが世界に広がったのは、英国が日の沈まぬ国として世界を制覇したという理由もあるが、やはりこの服装術が効率的、経済的、機能的であり、なににもまして「カッコイイ」からである。

女性から見てもスーツ姿の男が最も魅力的でセクシーであると言われ、カッコイイものは文化の垣根を越えて伝播するものである。

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メーカーズシャツ鎌倉株式会社
取締役会長 貞末 良雄

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